*第1章 伊東下田電気鉄道の誕生
(1)鉄道建設前史
鉄道期成賀茂郡同盟会
明治37年(1904)1月30日,静岡県賀茂郡の有 力者矢田部強一郎,県議会副議長土屋梅之助ら 16人は,100年後に伊豆循環鉄道の建設を実現す るべく「鉄道期成賀茂郡同盟会」を結成した。
同郡における最初の鉄道誘致運動は,東海道 本線の全通(明治22年7月)に始まる。地元有志 による「鉄道期成同盟会」が結成され,時の政 府に鉄道敷設を嘆願した。しかし,明治20年代 初頭から10年に及ぶ不況が続くなかで、,この運 動は不発に終わった。
地元の政•財界人で結成した賀茂郡同盟会は, 前拧の志を継承しながらもその轍を避け,他力 本願から手づくりの鉄道建設をめざした。
「大城ノ山麓南走シテ陸地ヲナスモノ正二之 レ賀茂郡ナリ」で始まる結成趣意書の概要は次 のとおりであった。
①国家および企業の手を借りない。
②loo年後にロカで鉄道を敷設する。
③建設資金1,000万円は,主唱者の自弁により
元金3万円を下田銀行に預け,90年後に 1,115万1,060円(複利)とし,100年後に伊 豆循環鉄道を建設する。
しかし,同会の種まきから成木伐採という林 業の基本図式を地で行くこの建設構想は,同年 2月の日露開戦により挫折し,郡民5万人の悲願 となった。
伊豆循環鉄道期成同盟
大正H年(1922) 4月11日,改正鉄道敷設法が 公布され,新たに建設予定線149が決定された。 さらに,同法別表第61号には,熱海,下田,松 崎を経由して大仁に至る伊豆循環鉄道予定線約 125.5kmの敷設計画が明記された。
これを受けて賀茂•田方両郡民は,会長に伊 東町長鈴木藤左ヱ門,副会長に下田町長金澤藤 左衛門を立て,「伊豆循環鉄道期成同盟」を結成 し,ただちに計画沿線の住民759人の署名をまと め,貴族院•衆議院の両院議長宛に請願書を提 出し,いずれも採択された。
また一方では,地元の政•財界人らによる伊 豆鉄道の「速成建議案委員会」が結成された。 同会の委員長には,地元出身の衆議院議員小泉 三申(本名•策太郎)が就任した。
伊豆住民一丸となっての鉄道誘致運動は,大 正15年12月,井上匡四郎鉄道相(若槻内閣)に より熱海一伊東間の建設が認可された。次いで 昭和2年(1927)12月,熱海一伊東間を下田まで 延長することが閣議決定され,翌3年12月の第56
2
—–
議会は伊豆鉄道下田延長を決定した。
しかし,同年7月,斎藤実内閣(三土忠造鉄道 相)は一転して鉄道縮小政策を打ち出すととも に,伊東一下田間鉄道延長計画の凍結を決定し た。これにより伊東線は完成(昭和13年12月15 B)したものの,念願の伊豆循環鉄道の誘致運 動は徒労に終わった。
さらに,昭和29年12月,運輸省の諮問機関で ある鉄道建設審議会が「新線建設計画は国家財 政ならびに国鉄財政の面からよく調査•研究, これを慎重に検討すべきである」旨の答申を行 った。この答申により32年の長きにわたる鉄道 誘致運動は,ここに終幕を迎えることとなった。
(2)伊豆観光開発構想
臨時建設部の設置と伊豆開発構想
昭和28年1月10日,東京急行電鉄㈱は伊豆開発 構想を樹立し,それに基づいて本社内に「臨時 建設部」が設置され,部長には木下久雄専務が 就任した。
建設事業単位に13の建設班♦開発班からなる 建設部は,積年の懸案となっていた「城西南新 都市」(のちに多摩田園都市)の建設に本格的に 取り組むこととなった。また,新都市の建設プ ロジェクトと並行して,伊豆観光開発の青写真 づくりも進められた。
五島慶太会長の描く伊豆観光開発構想の目玉 商品は,鉄道やバスによる伊豆半島交通ネット ワークの確立にあったことはいうまでもない。
開発拠点の構築
伊豆半島を国立公園に編入させようと,地元 の国会議員や県会議員,さらには経済•文化団
体等が一体となっての陳情運動は,昭和30年3 月,富士箱根伊豆国立公園として実現した。
昭和29年,伊豆半島のノド元に当たる交通の 要衝韮山の水宝閣旅館の買収を手始めに,今井 浜温泉の旅館真砂荘および海浜ホテルを傘下に 収めるなど,建設部開発班の動きは活発化し, 地元民の注目を集めることとなった。さらに, 達磨山,冷川,高室,八幡野の各地において事 業用地の拡大と地元企業との協力態勢の強化に も積極的に取り組んだ。
伊豆観光開発宣言
開発拠点としての水宝閣,さらには広大な事 業地の買収と,点から面への事業展開に明け暮 れた昭和29年であったが,翌30年1月7日,五島 会長は社内の年頭の挨拶において,公式の席で は初めて伊豆半島の観光開発構想を披露した。
「私は日本有数の観光地である伊豆を開発せ んとし,自動車専用道路を建設して,当社観光 バスをもって2時間以内に伊豆半島に到達する 一連の大計画をもっております。
伊豆の開発は,観光日本の表玄関,東京,横 浜の後背地として最優先的に考慮さるべき問題 であり,吉田前首相もこの開発計画に相当熱心 でありました。
自動車専用道路の建設計画の概要は,渋谷か
昭和29年ころの水宝閣
第1意 伊束下田電気鉄道の以生
3
———————
社内体制の整備
東京急行電鉄にとっては,戦前,戦後を通じ て初めての大事業である伊東一下田間48kmにも 及ぶ鉄道の建設は,それを完成するための体制 づくりが必要であった。
昭和32年11月1日,伊豆半島における鉄道敷設 ならびに観光開発に充てる用地買収業務を推進 するため,業務組織のなかに「伊豆開発班」(班 長山森作治郎)を設けた。
さらに翌33年10月21日,伊東一下田間電気鉄 道建設のための会社創立,用地買収,工事の企 画設計,諸手続きおよび工事施行を推進し,そ の建設促進を図ることを目的として「伊東下田 電鉄建設委員会」(委員長五島昇)を設置した。
次いで34年2月9日,鉄道敷設免許の認可にと もない,従来の伊豆開発班を廃止し,新たに「伊 東下田電鉄建設事務所」(所長沢勝蔵)を設置し
伊東下田電鉄建設事務所とその平面図
た。同事務所は,鉄道の起点である伊東市に開 設され,総務部,経理部,用地部,建設部の4部 が設けられた。
創立総会の開催
昭和34年4月9日午前11時,伊東下田電気鉄道 ㈱の創立総会が東急文化会館8階のゴールデン ホールで開催された。
同日,創立総会終了後の取締役会において定 款が承認されたことにより,本店を渋谷区大和 田町98番地の東京急行電鉄本社内に置き,資本 金10億円で発足した。
役員には,社長に五島昇,副社長に沢勝蔵, 取締役に五島慶太,大川博,木下久雄,柏村毅, 吉次利二,田中勇,馬淵寅雄,唐沢勲,矢野一 郎 (第一生命社長),弘世現(日本生命社長), 田中徳次郎(東京海上火災会長),大倉喜七郎(川 奈ホテル会長),緒明太郎(浦賀船渠監査役)が, また監査役には賀屋興宣(衆議院議員),綾部健 太郎(衆議院議員),黒田敬(静岡銀行取締役) がそれぞれ就任した。-
創立総会における当社役員
——-
⑥第2章鉄道建設の軌跡
(1)着工式の挙行
着工披露パーティーの開催
侍:望の工事施行認可と,10行2社の協調融資が 決定し,鉄道建設は本格的に始動することとな った。
昭和35年(1960)1月21日,政界,官界,財界 の名士,地元代表約600人の方々を帝国ホテルに 招き,伊東一下田間の鉄道建設着工披露パーテ ィーを開催した。席上,五島社長は,これまで の経緯と将来への決意を披歴した。
「わが東急が本電鉄の建設を決意いたしまし たのは5年前のことでありまして,昭和31年2月 1日に正式に吉野運輸大臣あて免許申請をいた しております。その後,故五島会長の異常な熱 意によって地元の方々も立ち上がり,打って一 丸とな7て免許獲得に進んでまいりました。そ れから4代の大臣を経て,昨年2月9日ついに永野 運愉大臣のご決断を得て免許となったものであ ります。そのとき,故五島会長は,自分は今ま
で数々の鉄道建設を手がけてきたが,自分で免 許を得て,自分で建設する鉄道はこれが初めて である。今までは全部他人が免許を受けたもの を頼まれて引き受けたり,あるいは譲り受けた ものばかりだ,と述懐して喜ばれました。本日 晴れて着工のご披露をすることができましたこ とについては,ここにご臨席くださる各位の厚 いご支援のたまものと存じ,五島会長の霊も深 く喜んでいることと思います。この事業は第二 の東急を建設するほどの大きな仕事であり,将 来性の多い事業と考えます。あとに残された私 たちは互いにしっかりとスクラムを組んで,こ の仕事の完成に頑張っておりますが,ご臨席の 皆様どうぞ今までと変わりなく,いやそれ以上 にご支援を賜り,この難工事が無事予定どおり 完成できますよう,ご鞭撻ください。」
続いて,檜橋運輸相,佐藤蔵相,小林前開発 銀行総裁(東急相談役)の祝辞があり,披露パ ーティーは盛況のうちに閉会した。
起工式の挙行
着工披露パーティーに続いて翌22日,伊東市 鎌田地区,下田町蓮台寺地区の各駅予定地にお いて鉄道建設の起工式を挙行した。
鎌田地区での起工式は,同地区画整理地域内 の当社用地に,三つのテントを張り,地元の代 表をはじめ報道関係者ら500余名を招待し挙行 した。蓮台寺地区の起工式では,五島社長の挨拶 に次いで、,来賓を代表して山本敬三郎県議が「伊
10
——-
豆鉄道が今日,よっやく起工式の運びになった のは,故五島会長の強い意志によるものだ。わ れわれ住民はこれからも伊豆鉄道建設に協力 し,できれば近い将来に南伊豆,松崎町の方に も鉄道を敷いてくれるようお願いしたい」と述 べた。
起工式(鎌田地区)
杭を打つ五島社長(伊豆急下田駅建設予定地)
鍬入式(河津地区)
⑵苦闘の建設工事
建設業者の決定
昭和35年1月20日,.全路線を10工区に分け,そ の各区間の工事を担当する建設業者を決定し公 表した。特命を受けた各建設業者は,担当工区 に建設現場事務所を設置し,着工準備体制に入 った。
また,起工式後,建設業者が中心となって「睦 会」を組織し,相互に連絡し合い励まし合った。 工事を計画どおり推進することを約し,自発的 に突貫態勢を敷いた。そして,宿舎,飯場,倉 庫,工事用電力の引き込み,さらには大小の土 木機械の搬入や据え付け工事を開始した。
同年2月13日には河津町において鍬入式を挙 行,谷津トンネルが伊東一下田間を通じて最初 のハッノヾをとどろかせた。3月に入ると蓮台寺, 松尾,黒根などのトンネルが続々と着手され, 工事も次第に活気を帯びてきた。
無線電話の開通
鉄道敷設工事が本格的な段階に入った昭和35 年4月8日,建設工事の監督指揮,事務の連絡を 急速かつ円滑に運ぶため,無線による通信網を 完備,同日開通した。
伊東の建設事務所を基地局として,八幡野, 片瀬,河津,下田の各工事事務所に分局を設け た。各局は出力25W (八幡野局のみ5W)で,総 工費は720万円であった。
建設事務所の設置
この大規模な工事展開に対する当社の体制 は,伊東市内の建設事務所に本部を置き;10」: 区間に5地区の工事事務所を設制して,1I:本事
第2章鉄道建設の軌跡
11
——-
務所は二つの工区を監督することとした。
鎌田,八幡野,片瀬,河津浜,下田の各工事 事務所からは,毎日の工事進技状況が本部へ報 告され,本部は全般的な工事進技の状況を把握 しながら,無線電話や自動車で指令を飛ばし, 工事の進技を督励した。
各工事事務所の概要は次のとおりであった。
•鎌田工事事務所 第1,第2工区8.9kmを担
当。所員13人隧道4カ所,橋梁15カ所(うち高 架橋2カ所)。本地区は水道山,旧伊東市内の 建物移転など問題を多く抱えていた。
•八幡野工事事務所 第3,第4工区10.84kmを
担当。所員9人。本地区には隧道3カ所,橋梁 10カ所,うち全工事中最長の川奈第3橋梁があ る。
•片瀬工事事務所 第5,第6工区6.7kmを担
当。所員10人。本工区には隧道5カ所,橋梁15 カ所がある。本地区内は奈良本の用地問題, 道路公団の小田原一下田二級国道135号線と の交差などの問題を抱えていた。
•河津浜工事事務所 第7,第8工区6.96kmを
担当。所員11人。本地区には全路線中2番目に 長い黒根トンネル(1.35km)がある。「
•下田工事事務所 第9,第10工区12.451kmを
担当。所員n人。本地区には全工事中の最難工 事であった谷津第2トンネル(2.7km)がある。
災害防止協力会の結成
建設工事が本格的にスタートしたことから, 当社は建設工事期間中の災害防止を図るため, 昭和35年2月29日,三島労働基準監督署の協力を 得て,「伊東下田電気鉄道災害防止協力会」を結 成した。この会は,工事期間中における天災• 人災を問わず,建設工事関係者はもちろんのこ と,地元民の安全を図るため防災対策の強化と 推進を目的としたものであった。同会はまた「安 全競争」のほか講習会や研究会なども行った。
同会の活動は,全工事終了(昭和36年12月9日) の日まで続けられた。その間落盤事故等が発生し,無事故•無災害の目標は完遂できなかった か•,その努力は高く評価された。
河津浜工事事務所
建設業者名と担当工区
1.1 X 汾じ W ( 2設会社名 )内現社名 工事区間 工事区間 距離(m) 隧 道
個所数 延距離(m)
1 村 上 建 設 伊東市湯川一万畑 5,800 3 1,458.3
2 勝呂 粗(住友建設) 万畑一三ノ原入口 3,100 3 248
3 野村 1:M(小田急建設) 三ノ原入口一富戸 2,720 2 535
1 大 成 建 設 富戸一赤沢 8,120 2 2,214
地崎 組(地崎工業) 赤沢一穴切湾 760 3 2,339.8
() 旗 び 組 穴切湾一白田川 5,940 2 1,939
7 四 松 建 設 白田川一稲取入口 3,940 2 1,682
8 範 為 建 設 稲取入口一見高 3,020 3 1,808
9 治 水 建 設 見高一落合 7,709 6 4,091
11) 東 急 経 設 落合一下田町 4,742 5 1,525
計 45,851 31 17,840
12
——-
工事の進接状況
昭和35年3月に着手した松尾一蓮台寺トンネ ルは,早くも4月28日,そして5月2日に貫通し, 先行き明るい見通しが感じられたが,工事の進 行と並行して続出する難題に直面することとな った。5月16日には,稲取地区の二級国道付け替 え工事中に道路が決壊するといった事態を招来 した。適切な処理により大事に至らなかったも のの,国道が一時不通となった。
6月17日,東急より13人の技術員の応援隊が派 遣され,猫の手も借りたい現場では大歓迎であ ったが,彼らもたちまち山積する諸問題を抱え て,今日は測量の立会い,明日は設計図面の仕 上げと連日追い回される明け暮れとなった。
このような状況のなかで,8月9日には,故五」 島会長の一周忌法要が伊東建設事務所でしめや かに執り行われた。当社幹部をはじめ,駆けつ けた作業服姿の現場員は,会長の夢を必ずや来 年の暮れには実現すると,決意を新たにした。
工事着工後の昭和35年7月の時点における工 事進接状況は次のとおりであった。
免許取得前後における竣工期限は,第1次目標 を36年6月としていたが,その後,実測,設計, 工事施工認可の関係から新たに同年12月23日に 変更された。
当社の基本方針では,まず全路線の約38%を占 める隧道工事を行い,この隧道をつなぐことに よって路線を建設していく方式をとった。
当初の隧道数28カ所がのちに3カ所増え31力 所となったが,10業者すべてがこの隧道工事に かかっており,しかも大部分は両方の坑口から
の貫通工事を進めた。
各建設業者の工事量をみると,平均1社が300 人/日の労務員を動員し,隧道作業には2交代制 をとっていた。ほとんどが隧道工事と盛り土, 橋脚の根掘り作業,あるいは山肌の切り崩しで、, ブルドーザー,エアコンプレッサーなどの重機 を装備し稼働させた。
当時の工事記録によれば,この時期,全工区 を通じて1日当たり,①作業員の動員数3,000人, ②重機の出動50台,③トラックや運搬等の動力 車500台が稼働した。これは工事費および規模に おいて伊豆半島における“未曾有の大工事”で あった。
31カ所の隧道のうち,このときまでに今井浜 と松尾トンネルの二つは貫通しており,工事未 着手の隧道は一つもなく,その大部分が30%程 度の進技を示した。
熱川隧道工事
河津駅建設工事
第2卒:鉄道也“殳の軌跡
13
——-
なお,工事資材の運送には,大川以北は国鉄 伊東駅を利用し,大川以南は稲取港と下田港を 利用して海上輸送を行った。
用地の買収
昭和31年2月の鉄道建設免許の申請時には「鉄 道の建設とともに観光資源の開発,観光客誘致 の基礎となる用地として,東海岸地区で伊東一 下田間 に約 74 万坪, 中央部で20万坪,西海岸地 区で16万坪,合計H0万坪の土地を買収し」(昭 和32年7月3日「公聴会記録」より)とあるよう に,この時点で東京急行電鉄は広大な原野を取 得していた。しかし,路線用地となるといささ か事情は異なる。
前章でふれたように,昭和32年11月1日に東急 社内で設置された伊豆開発班は事業用地計画資 料の洗い直しと,実施設計の基本資料づくりに 向けて精力的に行動した。測量,路線用地の幅 員の決定,地主名簿の作成などが主な任務であ った。また,一方では免許認可が下り一てはいな かったが,八幡野,下田,下賀茂などの各地で 友好的に用地買収を進めていった。
しかし,34年2月9日に免許が交付され,さら に4月io日当社が設立されるや,状況は一変し た。地価の高騰によって沿線の用地取得が困難 になったことである。特に下田や伊東では,前 年に比べ約2〜3倍に値上がりしたとさえいわれ た。ド川の場合は,当社の終着駅となることが 『定されており,さらに同町による5カ年計画 (都市計画)が前年施行されたため,土地高騰 に拍車をかけたとみられる。続いて翌35年,伊 工半島に温泉ならぬ観光開発ブームが到来する こととなった。
当社はこの時期,下111の寝姿山の開発,白浜
海岸までのスカイライン,下田ゴルフ場,ホテ ル建設,さらには東伊豆町のスポーツセンター 等を立案しており,加えて東拓興業,伊豆観光 開発,東海汽船等の諸企業が伊豆全域で観光事 業への参入を図っていた。伊豆はまさに観光開 発のオリンピックを迎えようとしていた。
東急による用地買収は,当社設立とともに用 地部に引き継いだが,前述の地価高騰の余波を 受け,用地取得件数は次第に硬直化の様相をみ せ始めた。
用地部も建設部同様,八幡野,片瀬,河津, 蓮台寺に連絡事務所を置き,用地買収に全力を 挙げた。五島社長をして「用地部の者たちは, 地主たちがあまりに強硬なので、,会社へも帰れ ず,山に入って弁当を食べて昼寝をして帰る始 末だ」と言わしめた稲取地区などでは,地主の 要求額と当社側の提示額の間にかなりの差があ り,難航した。このため稲取地区に限らず他の 工区でも,隧道掘削工事での廃土の捨て場さえ も確保できない状態で、,工事関係者は頭を抱え ていた。
当社は,本事業における最大の課題である用 地取得に対処するため,昭和34年12月22日付で、, 土地収用法に定められた「事業の認定」を斎藤 寿夫静岡県知事へ申請し,翌35年9月24日,県は 当社の申請を認定した。これによって当社は, 鉄道用地に関する限り,収用または使用できる 法的権利を獲得したことにより,最悪の場合, この土地収用法に基づ、く「土地収用」の手続き, すなわち強制収用が可能となった。
しかし当社は,これまでどおり話し合いによ る解決を基本的態度とすることに変わりなく, この法に基づく事業認定はあくまで,用地売却 による所得に対する課税対象額が4分の1に引き
14
——-
下げられるという土地所有者の利便を考慮した ものであった。
創立1周年式典と東伊豆町での鍬入式の挙行
昭和35年4月8日,五島社長は伊東の建設事務 所に当社の全社員を集め,創立1周年を祝った。 席上五島社長は,この鉄道が東京急行電鉄の将 来を賭して建設中であること,また伊豆住民の 半世紀にわたる夢の実現がかかっている事業で あることを強調するとともに,大要次のように 挨拶した。
「昨年の4月9日に創立総会を開いてから,はや 1年が経過した。そこでこの1年間の仕事を回顧 するとともに,これから伊東下田電鉄の建設が いよいよ苛烈な時期に入るのに対処するため,
“転ばぬ先の杖”として,十分な心構えと手当 てをしておかなければならない。そのために, まず先月の27日に開かれた取締役会で,東急の 常務である田中勇,馬淵寅雄,唐沢勲の3君を, そのまま当社の業務に就任させることを決定し た。そして次に,本日の部課長会議で’,支配人 という制度を設け,東急の勤労部長である山田 秀介君をこの任に当てることとした。今後,来 年の年末までの1力年半に,まだまだいろいろな 難問題が出てきてもこの態勢で押し切っていき たい。大本営が伊東へ出動するような事態にな らぬように,これからの仕事に邁進してほし い。」(『清和』昭和35年4月号より)
またこの日,五島社長,沢副社長ら最高首脳は, 斉藤寿夫静岡県知事をはじめ,伊東一下田間の 市長町長らと懇談し協力を要請した。同知事は 「地元市町村と会社側のなかに立って調整を図 り,鉄道が予定どおり建設できるよう努力する」 との協力的な態度を表明した。この知事言明に
より,その後の用地買収は進展することとなっ た。
下田での起工式に遅れること8力月,昭和35年 9月7日,東伊豆町での鍬入式が稲取駅予定地で 挙行された。前日からの雨も上がり,式は五島 社長と関係者,山本敬三郎県議,田村源一郎東 伊豆町長,鉄道建設協力会長鈴木貞雄下田町長 ら約300人の出席のもと盛大に行われた。
山積する諸問題への対応
工事は徐々に本格化したが,用地買収関係者 の苦闘にもかかわらず,用地獲得は遅々として 進まず,用地幅杭を打つ段階に至らぬ地区が多 <,次々に起こる難問題の説得に明け暮れる 日々が続いた。
なかでも水道山を含む旧伊東市内について は,以前から鉄道敷設には消極的な立場をとっ てきた一部の伊東市民が,温泉源でありかつ水 源に支障をきたすとの理由から,当社の鉄道建 設に対し反対の運動を起こした。
当社は,伊東市と水道山反対同盟会の同意の もとにボーリングを行い,東京大学地質学研究 所久野収博士に科学的調査の鑑定を依頼した。 その結果は「水道山トンネルは,伊東市の温泉 源,水源に影響なし」とするものであった。6月
東伊豆町地区での鍬入式
第2能 鉄並建”殳の軌
15
——-
29日,伊東市議会はトンネル通過の工事承認を 了承し,ここに16カ月にわたった水道山問題は ようやく終止符を打った。
一方,岡小川町地区と広野地区においても交 差問題で難航したが,昭和36年8月,斎藤寿夫知 事の裁定および伊東市等関係者との数次にわた る協議で立体交差で合意に達し解決をみた。ま た,富戸三ノ原等も難航の連続であったが,双 方が歩み寄り,35年10月13日解決をみた。
このほかに,奈良本地区(熱川)迂回路線に 対する説得(35年2月~同6月),谷津トンネルの 鉱区権所有者との覚書の交換(35年6月10日), 稲取地区用地買収の難航(35年7月27日解決)な ど枚挙にいとまがないありさまであった。
これら種々の問題を抱えながらも,2年後には 工事完成の目標に向かって進むため,重点的に 隧道坑口の買収を急ぎ,昭和35年6月には,無事 に万畑,川奈第3,赤沢,草崎,大川,穴切,熱 川,稲取,朝日台など主要長大隧道の坑口の工 事着手が可能となった。
用地折衝ばかりでなく,一方では県道交差8カ 所,県管轄河川130カ所,市町道交差170カ所な どの交差方法や占用願いの折衝を県や市,町役 埸と行い,設計図を書き,要望を聞き,希望を 述べ,了解点に達する努力が連日続けられた。
昭和35年ころの水道山
⑶国鉄,公団との合意なる
国鉄との契約成立
昭和34年7月n日,当社は日本国有鉄道斎藤治 平東京鉄道管理局長に伊東線伊東駅連絡設備承 認願,同共同使用承認願および車両の直通運転 と相互乗入承認願を提出した。
願書には,当社の希望案として,
①現在貨物着発線として使用中の3番線を当 社の着発線とし,その代替として3番線に隣 接して1線を新設し貨物着発線とする。
②駅前広場に面して案内所を設ける。
こととし,また伊東駅連絡設備については,
①伊東下田電気鉄道は伊東線の延長である。
②したがって伊東下田電気鉄道は,伊東線の 延長として建設されるべきである。
③伊東駅は,共同使用駅である。
④伊東下田電気鉄道と伊東線とは,列車を直 通運転するのが自然である。
としたうえで、,さらに当社の鉄道敷設免許の条 件となっている「日本国有鉄道が必要とする場 合には,これに譲渡すること」,および電気(直 流1,500V),軌間(1,067mm)等を国鉄伊東線と同
16
——-
一規格によって建設する旨を付載した。
その後,国鉄関東支社,東京鉄道管理局の各 関係部課との数次にわたる折衝を重ねた結果, 昭和35年8月22日,日本国有鉄道角正巳東京鉄道 管理局長より承認を受け,ここに東京一下田間 直通の当初の構想が実現することとなった。
道路公団との折衝
国鉄との折衝を続けながら,一方では道路公 団が進めている新設道路との協議事項もまた, 難問題の一つであった。
昭和35年2月より当社が土地立ち入り許可を 受けて測量を開始した同時期に,道路公団もハ 幡野から熱川までの道路新設工事を開始してい た。問題は,その間の途中路線で当社と公団が 競合する事態が生じたことによる。両者とも路 線を変えることが建設費その他の観点から譲り 合うことができず,協議に協議を重ねた結果, 翌36年も半ばをすぎてようやく合意に達した。
(4)伊豆急行に商号変更
着工1周年記念パーティーの開催
昭和36年1月23日,当社は伊東駅裏の広場で、, 政•官界,地元代表,工事関係者など約300人の
方々を招いて,着工1周年記念パーティーを開催 した。
式典は,五島社長の挨拶に始まり,次いで沼 田元式伊東市長,鉄道建設協力会長鈴木貞雄下 田町長の祝辞があり,石橋湛山元首相の音頭で 乾杯,祝宴に入った。席上五島社長は,「用地買 収の方も残すところ2%となり,建設工事の方は 現在53%に達しているカヾ,鉄道を敷く仕事はな んといっても用地買収が最も困難であるので、, 建設工事は53%でも実際にはもう全部を含めて 80%以上に達したことになる。あとは機動力と 人員をフルに動員して建設工事のピッチを上げ るだけのことであるので,今日は絶対自信をも って年内開通のお約束ができる」と挨拶した。
一方,社内においては,着工1周年記念行事の 一^3として,伊豆名物の猪鍋パーティーを開い た。これは五島社長の発案によるもので、,社員 の激励,とりわけ本年中に鉄道開通をめざして “猪突猛進”しようとの含みが込められていた ことはいうまでもない。
商号変更とPR活動
昭和36年2月20日,伊東下田電気鉄道は社名を 次のように改めた。
新社名を「伊豆急行株式会社」(略称•伊豆急)
着工1周年記念パーテイー
猪鍋バーティー
第2卒:鉄道建一の軌師
17
——-
とし,英文名は「IZU EXPRESS RAILWAY, LTD」(略称• IKK)とした。また,これにとも なって社章は,従来の「伊東下田」の代わりに
「伊豆急」の3文字を入れることになった。
社名の変更は,1月27日の定例取締役会で決議 され,2月20日の臨時株主総会で決定され,即日 発効した。この決定は,本年12月の鉄道開通に 向けて営業および広報活動を促進するためのも のであり,さらには”伊豆とともに生きる”当 社の基本姿勢をアピールすることを企図したも のであった。
開通を5カ月後に控えて,ようやく PR活動も 本格化した。まず,電波PRとして日本短波放送 (NBS)の“土曜ナイター”。5月6日の西鉄•南 海戦を皮切りに,当社のCMが電波に乗り,30秒 と5秒の軽妙なスポットがリズミカルに流れ始 めた。以後,毎週土曜日の7時から流された。
鉄道開通に先立って空前の南伊豆ブームが巻 き起こる兆しをみせ始めたカ、それに拍車をか けるように,当社選定のテイチク版レコード『’憧 れの南伊豆』(テスト版)が完成した。
曲全体にゆるくむせぶような南国調が満ちあ ふれていて,しかも覚えやすいリバイバルメロ ディーもほのみえるような歌であった。日本全 国津々浦々にまで流れたこの歌は,作詩が伊豆 ものを手がけてはベテラン中のベテラン小林 潤,作曲が井上完一,演奏はハワイアンムード では定評のあるバッキー白片とアロハハワイア ンズであった。
社内報『はまゆう』創刊
社員間に理解と信頼,協力の関係を構築する ことを目的に当社は,昭和35年10月1日,社内報 『はまゆう』を創刊した。
はまゆう(浜木綿)は別名を「はまおもと」 ともいい,暖国の海浜砂地に自生する多年草で ある。『万葉集』にも登場するこの花は,古来熊 野地方に多いとされているカ•,下田町田牛に群 生するはまゆうは天然記念物に指定されてい る。伊豆のシンボルであるこの花にちなんで, 誌名を『はまゆう』とした。
⑸ 駅舎の建設と駅名
駅舎の建築は,観光路線の特性を強調すべ< , 斬新なデザインでまとめられ,また沿線の立 地条件から塩害については特別な考慮を払って
新旧の社章ど「憧れの南伊豆」ジャケット
社内報「はまゆう」
18
——-
建設した。
昭和35年2月13日,河津町谷津地内で駅舎建設 の鍬入式を行った。続いて,軌道建設工事の進 技とともに各駅舎の計画,設計および工事が行 われた。36年7月7日,終着駅となる下田におい て,五島社長はじめ会社関係者,地元から鈴木 貞雄下田町長参列のもとに下田駅舎の起工式が 行われた。同駅は同年10月末に完成した。
これまで仮称で呼ばれてきた駅名の正式名称 が,昭和36年9月発表された。その概要は次のと おりであった。
【南伊東】泉都伊東市の将来の大発展を見越 して,地元からも固有の地名鎌田は返上し南伊 東としたい旨の要望もあり,また同音異文字の 駅名が東海道線大森と川崎の間にあることから 決定した。
【川奈,富戸】地名そのままとした。
【伊豆高原】地名の八幡野では響きが悪い。行 楽地として,かつ別荘地として,伊豆開発の拠 点たらしめる意図も含めて名付けられた。
【伊豆大川】東海バスの停留所が大川,国鉄 鶴見線にも大川駅があるため,地名の上に伊豆 を冠した。
【伊豆熱川】熱川と熱川温泉とが東海バスの 停留所と同名のため,伊豆を冠した。
【片瀬白田】地名は白田,そこで伊豆白田等の
案もあったが,地元の要望は片瀬が強く,湘南 の片瀬との混同を避けることで落着した。
【伊豆稲取】地名である稲取と同名の停留所 が東海バスにあるため,伊豆を冠した。
【河津】河津温泉郷,谷津等の案も出たが, 東海バスが河津浜,河津温泉を使用していたた め,古い由緒ある地名をそのまま採用した。
【稲梓】北海道根室本線に落合駅があるため 落合の地名は使用できず,地元の旧称が浮上し 決定した。
【蓮台寺】幕末の志士吉田松陰の滞在等で古 くから親しまれた隣接の大字名を採用した。
【伊豆急下田】下田駅は東北本線,和歌山線等 にあり,伊豆下田は東海バス,下田港は東海汽 船が使用しており,当社名を冠して命名した。
その後,伊豆北川(39年10月1日),今井浜海 岸(44年3月1日),城ケ崎海岸(47年3月15日) の各駅が新設された。
伊豆稲取駅舎
伊豆高原駅舎
伊豆急下田駅舎
第2章 鉄道す設の軌
19
——-
(6)谷津トンネルの貫通
進む隧道工事
用地買収の進抄と並行して,鉄道建設は定石 どおり,てまひまのかかる隧道工事から開始さ れた。
昭和35年3月には下田地区の蓮台寺,松尾,河 津町の谷津第2,黒根の各トンネルを皮切りに, 6月には万畑,川奈第3,赤沢,草崎,大川,穴 切,熱川,稲取,朝日台など主要長大隧道の坑 口の工事がスタートした。12月には全線で2番目 に長い黒根トンネルが,着工後224日目,延べ人 員3万6,000人を動員して貫通した。この貫通式 には駆けつけた五島社長の手によって最後の爆 破ボタンカS押され,坑口には万歳の声がとどろ きわたった。
そして早くも,同年4月28日には松尾,5月2日 には蓮台寺トンネルが貫通したとはいうもの の,地質の変化が激しく,断層の亀裂からの出 水が多 <,奮闘を続けても1カ月に10mも掘削が 進行しない隧道さえもあった。11月1日には東豆 館,南海ホテルの水脈を切断し,また11月6日に は稲取町の水道源の水脈を切断し,一時は坑内 を締め切り,貯水槽として稲取上水道へ送水す る非常手段がとられた。
本線最長の河津と下田を結ぶ谷津第2トンネ ル(2,796m)の貫通式が6月13日午後1時30分, 五島社長はじめ会社関係者,清水建設関係者ら が参列して行われた。同トンネルは前年の5月12 日に着工,ジャンボ(全断面掘削機)など最新 鋭の機械と技術を投入して工事が進められてい た。このトンネルの貫通で工事も峠を越え,.予 定どおり12月開通の見通しがついた。
鉄道建設工事が最終工程に入った昭和36年9 月27日,当社初代副社長沢勝蔵が鉄道開通を見 ることなく不帰の客となった。
落盤事故
仕事の安全と人命の尊重をモットーとしてエ 事の安全管理には十二分に配慮したが,昭和36 年に入ると工事量の拡大に伴い事故が多発し た。なかでも3月28日の永昌寺トンネル落盤によ る3人死亡事故,それに続く 4月16日午後2時30 分,東伊豆町稲取東町隧道工事作業中における 落盤事故は,当社鉄道建設工事中の最大事故と して全国的に報道された。
東町トンネルの事故は,両坑入口からの決死 の救助作業にもかかわらず13人が生き埋めとな り11人が死亡,救出者わずか2人でその後死亡 するという悲劇を招来した。
活躍するジャンボ(全断面掘削機)
20
——-
線路接続式の挙行
こうした不慮の事故を乗り越えながら建設工 事は日々追い込みに入り,赤沢(2月18日),熱 川(3月1日),大川(3月15日)と主要隧道が相 次いで貫通し,また赤入道,白田川,河津川, 落合川などの橋脚が立ち上がっていった。
工事も終盤戦に入ってレール敷設工事が開始 された。6月13日には,最も工事が進抜している 下田を手始めに,各工区で本格的な敷設作業に 入った。このレールは国鉄と同一規格の50kgで, 長さは10mおよび12mものを使用し,工事のス ピードアップをねらったものである。
9月に入って,10,11月に控えた監督官庁の監 査を目標に,再度東急からの応援を得て,電気• 軌道関係の工事は,残工事をかかえた土木工事 と並行して伊東一下田間46kmで展開された。9月 末には2, 3の隧道を残して土木工事は完了し, 10月中旬には全線31カ所の隧道が完成,ただち に軌道および電気関係担当に引き渡された。
次いで,これを受けた電気•軌道関係者は, 引き続き1カ月のうちに5万曲の砕石を軌条下に 入れ,つき固め,架線を張り,線路に合わせて 調整し信号取付け作業を行った。
金色の犬釘を打ち込む五島社長
10月20日,ついに全線に軌条•架線がつなが り,翌11月1日には伊東駅構内で国鉄線との線路 接続式が挙行された。式は古式にのっとった祝 詞奏上とお祓いののち,金色の犬釘が五島社長 らの手によって打ち込まれ,これにより東京一 伊豆急下田間直通運転が実現することとなっ た。続いて3日には東横線で試運転を行っていた ハワイアンブルーの新鋭車が入線した。
これに先立つ9月末より,通産省の第1次監査, 10月初旬には5日間の運輸省および名古屋陸運 局の構造物監査,10月末には通産省の第2次監査 などが行われ,11月21日より運輸省および名古 屋陸運局の最終監査が行われた。土木,軌道, 電気,車両,運転,営業などの部門別に10日間 にわたる監査を経て,11月30日,良好との講評 を得たことで’,ここに伊豆急線伊東一下田間46 kmが完成の運びとなった。
⑺ 竣工式典と慰霊祭の挙行
鉄道開通を2日後に控えた昭和36年12月7日, 午前9時半から,東京•世田谷区九品仏の五島会 長墓前で,一番電車に乗ることを夢みながら他 界された五島会長に,五島社長をはじめ当社役 員が伊豆急開通の報告を行った。また,午前11 時からは東京会館で当社鉄道の概要と開業につ
試運転電車を見送る地元の人々(伊豆急下田駅)
第2登 鉄道建設の帆跡
21
——-
いて,内外の新聞記者を招いて発表を行った。
同日の午後].時半,伊豆急開通披露パーテイー が銀座東急ホテルで開催された。佐藤栄作通産, 斎藤昇運輸,石田博英労働の各大臣,大平正芳 内閣官房長官,松永安左衛門,井上靖など政• 財界人,文化人,芸能人など各界を網羅した招 待客は1,000人を超えた。来賓の拍手に迎えられ て壇上に上った五島社長は,大要次のように挨 拶した。
「当社は,昨年の1月21日に帝国ホテルで着工 のご披露を申し上げたが,その際2年以内で完成 すると約束した。正直のところ,私も東急の社員 も自信はなかった。明後日からは電車が走ると はいえ,当分は営業的にもかなり苦しいところ である。しかし,何か社会的にも貢献し得る, 社会にお返しをといった気持で進んでいきた い。こんどの鉄道建設での最大の収穫は,父の 他界後の2年間,東急事業団が一致協力すれば, なんでもできるという考えカミ,私をはじめ社員 一人ひとりに芽生えたことである。」
翌12月8日午後6時,20年前わが国が第2次大戦 で連合軍に宣戦を布告した同じ日,東京千駄ヶ 谷の東京体育館に,映画•演劇界を代表する豪 華メンバーを集めて,“伊豆急開通前夜祭•歌と踊 りのグランドショウ”を開催した。席上,五島
記者発表をする五島社長(東京会館)
社長は「亡父五島慶太の遺志を継いで、,努力し てきた伊豆急行が,明日から走ることとなった。 単なる観光地の開発だけでなく,皆で楽しめる レジャーランドをつくりたい」との挨拶を行っ た。1万人を超える観衆で館内はふくれあがっ た。まさにこの夜は伊豆急一色に塗りつぶされ た感があった。なお,この模様は,NETテレビ (現•テレビ朝日)をキーステーションとして, 静岡放送,中部日本放送,毎日放送にネットさ れ放映-された。
昭和36年12月9日,2年前に起工式を行った伊 東市鎌田の南伊東駅で’,竣工式が挙行された。 五島社長をはじめ役員,関係者が参列し,葛見 神社宮司により修祓が行われた。ホームには, 明るいハワイアンブルーの新型車が7両編成の 美しい姿をみせていた。関係者一同の心からの 玉串奉奠があり,午前10時10分,式はとどこお りなく終了した。
伊豆急開通前夜祭(東京体育館)
竣工式(南伊東駅)
22
——-
式後,用地の提供など伊豆急建設に協力をい ただいた地元の方々に対し五島社長から感謝と お礼の言葉が述べられ,次いで沼田元式伊東市 長の音頭による万歳三唱が行われた。かくして, 地元民60年の悲願がここに実現した。
伊豆半島が,伊豆急開通の喜びにわくなかで, 36年12月11日午後1時から下田•海善寺において 伊豆急行建設工事殉職者合同慰霊祭が行われ た。遺族の方々をはじめ伊豆急役員,各建設会 社代表など約100人が参列した。
建設工事に献身的な努力をされ,ついに貴い 犠牲となられた31人の方々に対し,五島社長は,
「伊豆急行は昨日めでたく開通いたしました。 皆さんの血と汗の結晶が伊豆急行なのです。レ ール1m,いや1cmにも皆さんの血と汗がにじん でいるのです。伊豆急行の開通により,今まで うずもれていた無限の観光資源も,日の目を見 ることになりました。そして皆さんの霊は,伊 豆とともにいつまでも生きています。いつまで も私たちを見守っていてほしい」
と哀悼の意を表した。
第2市:鉄道建,あの軌跡
23
——-
価第3章企業基盤の確立
(1)鉄道事業の整備
開通式と祝賀電車の運転
昭和36年(1961)12月9日,南伊東駅で竣工式 を終えた五島昇社長をはじめ関係者は,引き続 いて挙行される開通式典にのぞんだ。五島社長 の手でテープが切られ,午前11時,7両連結の八 ワイアンブルーの祝賀電車は,運転室に五島慶 太会長の遺影を安置し,会社関係者および招待 客を乗せて伊東駅1番ホームを発車した。電車は 定刻の午後0時30分,終点伊豆急下田駅へ“第 二の黒船”として歴史的第一歩をしるした。
駅前広場には,政•財界から贈られた数百の
花輪に囲まれて,縦10m,横5mのにこやかにほ ほえむ五島会長の肖像が頭上高く掲げられ,2万 余の観衆を見下ろしていた。
式は五島社長の挨拶のあと,ヘリコプターで 乗り付けた俳優の石原裕次郎が五島社長の首に レイをかけ,次いで斎藤寿夫静岡県知事,遠藤 三郎元建設相,山本敬三郎県議,沼田元弍伊東 市長の祝辞があり,最後に鈴木貞雄下田町長の
「鉄道開通のお祝いと御礼」と題する挨拶があ り,聴衆を感銘させた。終わりに永野前運輸相 の音頭で祝杯をあげ,ここに鉄道開通第1日の祝 賀式典は終了した。
この日の下田は,歓迎行事で伊豆急一色に塗
テープカットをする五島社長(伊東駅)
にっこりほほえむ五島会長の大写真
沿線の歓迎風景(伊豆稲取駅)
お祝いのスピーチをする石原裕次郎
24
——-
りつぶされた。海上ではヨットレースや漁船約 40隻がパレードを繰り広げた。また,商店街で は旗行列,夜は提灯行列や下田小学校での伊豆 急祭りなど,町を挙げて電車開通の祝賀に酔い, 黒船に次ぐ第二の観光黄金時代の到来を祝っ た。
翌12月10日,東京一伊豆急下田間の直通電車 が開通した。午前5時18分には伊豆急下田駅始 発,伊東行きの一番電車が発車した。
一方,東京駅では,岸信介前首相,経済団体 連合会石坂泰三会長,島津久永•貴子夫妻ら各 界の名士1,000人を招待し,開通祝賀式典を挙行 した。十河信二国鉄総裁のテープカットで・,午 前8時12分,特別仕立て(10両編成)の祝賀電車 は東京駅を出発,同11時39分,定刻どおり伊豆 急下田駅に到着した。同駅前は,近郷近在から 集まった約8,000人の歓迎の人波で埋まった。
引き続き五島社長ら50人が,下田ロープウェ イの寝姿山の山頂での故五島会長の顕彰碑除墓 式に出席した。碑には,「五島慶太は伊豆ととも に生きている」の文字が刻まれていた。
輸送力の強化と旅客誘致の推進
開業時における当社の保有車両は22両,熱海 直通は毎日3往復,5両編成列車によって行われ
た。また,伊東一伊豆急下田間は27本(うち伊 豆高原行き1本)が運行された。東京直通の準急 列車は平日1往復(休日2往復),10両編成の国鉄 車両により運転された。
さらに,以上の定期運行列車のほか当社は, 下田黒船祭の東京直通臨時列車の運転をはじ め,納涼電車,伊東安針祭花火大会および下田 太鼓祭には当社線内での臨時電車の運転を行っ た。また夏季には,伊豆稲取一河津間に今井浜 海水浴場駅を臨時に設置するなど運輸収入の増 加を図った。
昭和37年9月には,蓮台寺伊豆急ピクニカ村が 開業した。稲生沢川沿いに,約1万mの敷地のな かに温泉浴室,大食堂,売店,駐車場等を設置 し,蓮台寺駅前にピクニカ80台が勢ぞろいした この施設は,ハイキング,磯釣り,伊豆遊覧の キーステーションとして脚光を浴びた。また, 正月時の東京直通臨時準急“おくいず号”の運 転は好評を得た。
昭和38年4月,全国私鉄中で初の夢の電車“ス コールカー”(乾杯電車)を登場させた。この冷 暖房付きのデラックスカーは,前年7月のブルー サ ン トリー号の運転が機縁となって,サントリ 一㈱の寄贈により運行されたもので,乗客から 絶賛を博した。
開通祝賀式典(東京駅)
五島会長顕彰碑除幕式
第3記企業年盤の確か.
25
——-
開通時の列車時刻表
伊東一伊豆急下田(下り) 伊豆急下田一伊東(上り)
時分発 着時分 5 38 6 42 6 31 7 39 7 08 8 14 7 48 8 53 8 28 9 38 9 08 10 16 9 46 10 54 伊豆高原始発10 : 33 1125 10 31 11 39 11 29 12 35 12 00 13 05 12 27 13 33 13 09 (熱海始発) 1413 13 50 14 53 1411 準急おくいず(限土休) 15 07 14 26 (熱海始発) 15 44 14 58準急いず 15 51 15 39 17 00 16 07伊東一伊豆急下田土曜 17 27 伊豆高原始発16 : 38毎日 16 36 17 45 17 14 18 23 17 35 18 30 18 03 19 14 18 32 19 40 18 58 20 08 19 25 20 38 20 33 21 37 21 09 2115 22 20 23 25 23 00 伊豆高原止(23 21) 時分発 着時分 伊豆高原始発5 :13 5 35 5 18 6 23 5 58 7 04 6 35 7 41 7 08 8 21 7 57 9 02 8 35 9 41 9 08 10 20 9 42 10 40 10 08 (熱海) 1119 10 36 11 49 11 08 12 18 11 50 (熱海) 13 00 12 18 13 27 12 48 14 00 13 15 (限土休) 14 32 13 42 15 04 14 22 (熱海行) 15 45 15 07 16 14 1515準急おくいず(限土休日運転)16 20 16 01準急いず 16 56 16 06 17 24 16 43 17 51 17 10 18 26 17 37 18 51 18 06 19 18 18 55 20 01 19 22 20 29 20 30 21 42 21 20 22 27 22 30 伊豆高原止(2313)
開通時の旅客運賃表
伊東一伊豆急下田間 (二等運賃) 東京一伊豆急下田間
南伊東, 10円 片瀬白田 140円 二等運賃 570円
川奈 40 伊豆稲取 160 準急券 200
富戸 60 河津 180 一等運賃 1,140
伊豆高原 80 稲梓 210 同準急券 480
伊豆大川 110 蓮台寺 220
伊豆熱川 130 伊豆急下田 230
26
——-
8月には運輸営業の支援拡大のため旅客誘致 課を新設し,南伊豆ハワイアンコースの設定, みかん狩りや下田外浦海岸での夏季臨海学園, 今井浜ピクニカ村,海の家などを開設し,旅客 の誘致に努めた。
一方,輸送力の強化のため,新車両3両を増強, さらには国鉄より電気機関車1両を譲り受け,貨 物輸送の充実を図った。
io月のダイヤ改定にともない,新たに“おく いず号”の毎日運転,土曜準急伊東止まり“あ まぎ号”の伊豆急下田までの乗り入れが行われ たため,伊豆急下田,伊豆高原の両駅の整備な ど輸送力の増強と施設の拡充に努めた。
翌39年10月,2度目のダ’イヤ改定が行われ,熱 海直通電車を4往復増加し11往復とし,これによ り東京一伊東間直通に接続するものを除いて, 日中の全列車が熱海一伊豆急下田間直通となっ た。また,休日準急“臨時あまぎ号”の運転,
スコールカー車内風景
11月にはデラックス車両を使用した急行”伊豆 号”の1日2往復運転など輸送力の増強を行った。 さらに,釣りやハイキング客のために,車中で 仮眠できる夜行仮泊電車“なんず号”の運転が 開始された。
41年には臨時急行“第1いでゆ号”の毎日運転, 土曜から日曜にかけて平(福島県)-伊豆急下 田間直通急行“常磐伊豆号”の運転を開始(10 月)した。
旅行斡旋業務の開始
当社は,昭和36年12月10日,鉄道の開通と同 時に下田,伊東,銀座の各案内所を開設した。
また,旅行斡旋業務については,開業以来伊 豆急サービスに委託していたが,業務内容の充 実と業績の増進を図るため,これを当社が直営 とし,昭和38年7月27日,名古屋陸運局の認可を 得て正式に旅館の斡旋,団体募集,船車券関係 の発売を案内所で実施することにした。
同年7月には,東京•渋谷の東横百貨店1階に 案内所を開設し,続いて中京,関西方面からの 誘致を図るため名古屋(39年4月),大阪(40年 8月)の各案内所を設置した。現在,沿線5カ所 を含む計ioカ所の案内所が旅客誘致に努めてい る。
なんず号
第3章企業居盤の確*:
27
——-
⑵不動産部門への進出
不動産部の新設
伊豆急開通を契機に,伊豆半島における別荘 地の開発競争の動きは本格化したが,まだその 主力は中小業者の手で進められていた。
当社は,昭和35年にスタートした鉄道建設工 事と並行して不動産事業への進出を図るべく, 同年10月1日,開発部を設置するとともに計画課 および事業課の2課を設けた。そして,東急建設 の応援を得て,約363万mの分譲地の造成工事に 着手した。翌36年10月には松ケ丘地区,続いて 12月には鉄道開通記念事業の一環として松原地 区の販売を開始した。両分譲地は当社開発部が 一般業務を担当し,販促業務を東急不動産に委 託して行われた。
翌37年8月には,鉄道部門の損失を補うべく不 動産部を新設し,東京事務所に駐在させ販売網 の拡大を図った。また,不動産部門の充実•強 化策の第一弾として,伊豆高原地区第1期(第1 次〜第9次)造成工事に着手した。
伊豆高原別荘地の分譲と工事部の新設
昭和38年2月,待望の伊豆高原別荘地第1次分 譲(115区画)を開始し,これを皮切りに次々と 近成と販売が進められることとなった。
同年6月,別荘地分譲業にとって不可欠の水道 事業が県知事より認可された。先原三里といわ れた溶岩台地において飲料水を確保することは 難問題であったが,地元民の協力を得て,矢筈 山麓に深井戸を掘り給水することで解決した。 翌39年2月には水道給水が開始された。
分譲地の造成が進むなか,幹線道路の立体交 差,引湯工事等が一挙に具体化したため,昭和 38年8月1日,新たに工事部(第1,2課)が発足し た。
温泉給湯の実施
“伊豆高原に温泉を弓I く”という奇想天外な アイデアが浮上したのは,伊豆急開通の翌37年 2月のことであった。当時の伊豆高原駅周辺社有 地約116万mに温泉付き別荘分譲地として売り 出すという構想であった。第3次分譲が始まった 38年9月,温泉給湯計画は,熱川温泉近くの湯の 沢から線路沿いに引湯することが具体化した。
湯の沢の源泉3本は,いずれも自噴で100℃あ った。これを70℃にし,毎分2,0002として伊豆 高原まで引湯しようというものであった。しか し,この温泉はスケール(湯垢)の付着が甚だ し < ,自噴のままにしておくと4, 5日で源泉口 がふさがってしまうことから,これをいかにし て無駄を少なく有効に利用するかが課題となっ
松原団地造成工事
伊豆高原分譲地の販売推移
収売開始 区画 1数 面積(mり
第1次 昭和和.2.11 115 119,000
2 5.19 130 83,000
3 9.20 66 51,000
4 11.18 60 53,000
5 39. 4.1 98 84,000
6 10.13 100 90,000
7 12.16 108 67,000
8 40. 4.15 148 81,000
9 7.12 33 36,000
28
——-
た。スケール除去方法の調査および実験が繰り 返し行われた。また,温泉研究の調査機関(中 央温泉研究所,温泉施設合理化センター,資源 開発研究所)の協力を得て研究は続けられた。 そして39年3月,総工費2億円にも及ぶ引湯工事 力S,温泉調査と並行して着工する運びとなった。
工事は,直径20cm,延長約12kmにおよぶパイ プラインの敷設,10台,270kWに上るポンプ機 器の決定,パイプ内温度の降下計算等々に追わ れながら,日本一といわれる引湯管を湯の沢か ら伊豆高原へと鉄道沿いに敷く作業が続けられ た。
源泉の諸試験と実験もほぼ完了し,電気設備, ポンプ設備の工事も完了した昭和39年10月1日, 五島社長出席のもと通湯式が行われ,ここに「伊 豆高原温泉」が誕生した。(36年6月2日,㈱湯の 沢研究所,当社の傘下となる。次いで38年5月1 0,南伊豆温泉開発㈱に商号変更)
営業活動の展開
開設時の不動産部は,営業課のみでセールス 人員は6人,これを3班に分け,とりあえず上司 の紹介状を持って東急グループおよびその取引 先,縁故関係を回ることからスタートした。と きには一般法人や商店などへの飛び込みセール
スも行った。しかし,当社の知名度も低く,加 えて伊豆高原という地名を知る人は皆無であっ た。ノヾンフレットもなく,伊豆半島の地図と区 画割の青図を持ってのセールスは,苦労の連続 であった。
第1次分譲が開始された昭和38年ころの伊豆 高原は,駅からの幹線道路もなく,現地への案 内は有料道路から池道路経由で行った。案内所 は,鉄道建設当時の八幡野事務所を大楠の脇に 移して応接した。案内所から現地までは道路も なく,荒涼たる雑木の溶岩地帯が続いていた。 しかし,海と山の展望は素晴らしく,もっぱら 景観と会社の信用をセールスポイントにしての 販売であった。
厳しいノルマを背負って昼夜兼行,日曜•祭 日も返上して必死に頑張るセールスマンの苦闘 は43年まで続いた。40年6月,個人別褒賞金制 度が実施された(のちに各班ごとに予算をオー バー した売上のみ を対象に した団体奨励金制度 に切り替えられた)。
当社の販売方法は,当初は即金と賦金の二本 立てであり,賦金契約は年12%の金利のため, 顧客から不評を買った。そこで41年10月から新 たに住友信託銀行とローン提携を実施した。こ のことは単に会社の信用度が増大しただけでな
鉄道沿いに敷設する引湯工事
伊豆高原分譲地
第3記企終A盤の確”.
29
——-
<.顧客側の金利負担の軽減,資金繰り,さら には税務対策上の利点があり,歓迎された。ま た,販売促進の面からも大いに役立った。
別荘地の需要者開拓については前述したが, その後の売上予算の増大とともに,より多くの 需要:者を獲得するための方策が要請された。そ こで42年1月に行った第14次の分譲地の売り出 しから,新たに“内見会”という名の招待会を 実施することとなった。
内見会は,50人から100人の見地希望客をダイ レクトメール,新聞広告等で募集し,東京駅か ら特急または急行に団体乗車してもらい見地願 うというものであった。現地には不動産部全員, ならびに開発部等からの応援社員が待機して, マンツーマン方式で案内をし,手付け,契約へ と成果を図っていった。見地客の特に多いとき には,本社事務所の2階全部を顧客の控室にした こともあった。また,本社事務所の前に30台か ら40台の案内用の自動車が勢ぞろいした光景 は,なかなかの偉観であった。この企画は,顧 客が気軽に見地できるということで好評を得 て,その後も新規売り出しのつど日曜日に行わ れ,売上増進の原動力となった。
発売以来5年,ゆるやかではあるが日本経済の ヒ外気流に乗って,分譲地の販売も好調を持続
内見会風景
した。一時,全く途絶えた法人筋の需要も回復 し,業績も着実に伸長した。40年代に入って, 分譲地内の建物も大小合わせて200棟を超えた。 伊豆高原駅前の幹線道路を桜並木にする計画が 立てられ,ソメイヨシノの苗木約1,000本を植樹 した。また,ショッピングセンターやプール, テニスコート,ゴルフ練習場などのファミリー パークも建設した。 高級週末別荘地として着実 な進展をみせる伊豆高原は,ここに新しい町づ くりへの第一歩を踏み出すこととなった。
⑶関連事業への進出
下田ロープウェイの設立
昭和36年4月1日,下田ロープウェイ㈱は下田 への観光客の誘致を目的に,当社と東海自動車 ㈱の共同出資により当社の関連会社として誕生 した。社長には五島社長が就任,資本金3,000万
伊豆高原の桜並木
30
——-
円,従業員27人で発足した。
同ロープウェイの計画は,当社と東海自動車 が35年の同時期に名古屋陸運局に申請したため 両者競願となった。当社は無益な競争を避ける ため東海自動車側と折衝を重ねた結果,共同出 資によることで合意をみた。
会社設立とともに,工費7,500万円をかけて完 成した同ロープウェイは,伊豆急下田駅前から 寝姿山にかけた三線交走式で2台のゴンドラ(石 廊号,寝姿号)の乗車人員は,乗務員を含めて 各41人であった。
ロープウェイの開通祝賀式と招待試乗は,36 年11月1日,各市町村長ほか300人の招待客と約 100人の当社•東海自動車両社の関係者によって 盛大に挙行された。式典は五島社長,東海自動 車鈴木社長ら首脳陣が出席され,五島社長の手 でテープが切られて終了し,ただちに開通祝賀 のパーティーに移った。また,招待試乗は午後 1時半すぎまで行われた。
翌37年7月中旬から8月末まで行った夜間運転 は,夜の下田を一望しようとゆかた姿の観光客 でにぎわい,特に8月中旬の下田祭の開催中は最 高の入りをみせた。
寝姿山山頂には展望台,幕末見張所跡等が設 置され,眼下に下田湾,前方海上にはご神火の
大島をはじめ利島,新島,式根島,神津島,や や遠くに御蔵島,三宅島の伊豆七島が眺望でき, 南伊豆観光の名所となった。のちに愛染明王堂 (49年6月),下田開港記念館(51年3月),蓮杖 写真記念館(60年4月)が建設された。
伊豆運輸の設立
当社は昭和36年5月1日,地域(稲取,下田) における陸上貨物運送を事業とする伊豆運輸㈱ を設立した。同年12月の鉄道開通を見込み,通 運事業•道路運送を付帯事業とするもので、,下 田ロープウェイに続き2番目の系列会社となっ た。資本金600万円,社長には唐沢勲常務が就任 した。さらに同年12月,伊豆急通運㈱と商号変 更し,その後当社グループ内の合理化のため40 年8月,同社と平野運送㈱と合併し,新たに伊豆 貨物急送㈱として発足,現在に至っている。
ちくまや海運の設立
昭和36年5月8日,当社は船舶運航事業への進 出を企図して,ちくまや海運㈱を設立した。資 本金1,500万円,社長には田中勇専務が就任し た。
同社設立時には,石廊崎航路に“第2富士丸” (25.49トン,定員66人)と下田港内周遊コース
航行中の第2富士丸
第3あ企案廖盤の確立
31
——-
に“みこもと丸”(12.66トン,定員46人)の2隻 が就航した。
同社は,37年2月1日,伊豆急海運㈱に商号を 変更,51年10月には石廊崎観光㈱を吸収合併し 石廊崎周遊航路を運航,59年7月,㈱伊豆急マリ ンに社名を変更し現在に至っている。
伊豆急サービスの設立
食堂および売店の経営,駅構内および車内に おける物品の販売,遊戯場および娯楽場の経営, 旅行斡旋業等を目的に,昭和36年9月20日,㈱伊 豆急サービスを設立した。資本金200万円,社長 には当社取締役石毛公済が就任した。
当初は主要駅の売店の充実に努力した。同社 の運営による「グリル伊豆急」は,下田を訪れ る旅行客のオアシスとして歓迎された。また, 同施設は,食堂として利用されるだけでなく,
みこもと丸
ホテル伊豆急(左)と白浜レステル
ダンスパーティーなどの会場として提供し,ク リスマスや黒船祭など下田の恒例の行事にも積 極的に協力し,地域住民の交流の施設としての 役割も果たした。
その後同社は,白浜レステル,白浜レステル 別館,同新館(ホテル伊豆急),レストランアゼ リア,パーラーアゼリア等を運営し,業容の拡 大を図っていった。
伊豆急自動車の設立
伊豆急開通にともない旅客が激増したことか ら当社は,昭和37年1月16日,伊豆急自動車㈱を 設立した。資本金1,000万円,社長には唐沢勲常 務が就任した。
本社を下田市に置き,当社線の河津,蓮台寺, 伊豆急下田の各駅構内でタクシー業を営んだ。 開業当初の車両は,ハワイアンブルーの軽快な ニッサンセドリック12両でスタートした。
さらに,同社は,稲取,伊豆高原,川奈,熱 JII,下賀茂に営業所を開設するとともに,9人乗
伊豆急自動車営業所
•承室
32
——-
りジャンボタクシーやわが国初のスターライト ルーフ(天窓)車を導入するなど,積極的な事 業展開を行っている。(現在保有車両69両)
伊豆急スポーツセンターの設立
昭和38年6月1日,南伊豆レジャーの拠点とし て,㈱伊豆急スポーツセンターを設立した。資 本金5,000万円,社長には副社長田中勇が就任し た。
当社線伊豆稲取駅から約6km,天城連峰を背 に,前方には伊豆七島および稲取温泉郷を眼下 におさめる同スポーツセンターには,ゴルフ場, クラブハウスやロッジ,400mトラック,サッカ 一場などの施設が建設された。
当社による同スポーツセンターの建設計画 は,鉄道開通前に立てられたが,資金面の制約, 町有地借用等で難航し,その後紆余曲折を経て 38年3月,ようやく東伊豆町稲取の町有地約264 万壮の賃借契約が締結の運びとなった。
39年7月23日営業を開始した稲取ゴルフ場は, 用地面積約100万irf,18ホールズ6,875ヤード, パー72のチャンピオンシップコースとした。ま た,アップダウン90mは,山岳コースとしては 平坦な部に属し,さらにコースの設計はアマチ ュアからプロゴルファーまで十分プレーできる レイアウトとした。
稲取ゴルフ場の旧クラブハウス
その後48年には新たに9ホールを増設し,コー ス名も従来のアウト,インから,山,海,森コ ースと改称し,27ホールズ,9,276m,パー108と なった。
(4)田中副社長就任と伊東事務所の建設
“岩戸景気”と“いざなぎ景気”のはざまの厳 しい構造不況下の昭和37年8月16日,新しい経営 陣のもとで当社は,38年11月,資本金を30億円 に増資した。
田中副社長は,難局を打開するための心構え として,大要次のように述べた。
「伊豆急,並びにその関連会社5社は赤字会社 である。今の私はどうすればこれら全部を黒字 会社にすることができるかという宿題の解決に 日夜あらゆる努力を続けている。伊豆急をお引き 受けした当初は,まったく見込みもつかず暗い 気持であった。この時,私に活を入れてくれたの は五島会長の教訓『なにくそ』の精神であった。
今日,伊豆急は電車収入を遙かに超える借入 金の利子を背負い,9億円を超える未払建設工事 費を抱え,さらに八幡野の宅地造成工事費とし て数億円を調達しなければならないなど実に困 難な道を歩んでいる次第である。この難局を打 開する道は,五島会長の事業哲学の一つ『予算 即決算』の一語につきる。
私どもの会長,五島慶太翁は伊豆とともに生 きて,私どもを見守ってくれている。奮起一番, 伊豆急に私どもの総てを賭けようではないか。」
(『はまゆう』昭和37年10月号より)
鉄道建設による巨額の借入金を抱えて出発し た当社は,その後も借入金の金利負扣.
により収 支面では欠損を続けたが,昭和W年度にはじめ
第3章企業施盤の確M
33
——-
て,待望の黒字経営に転じた。
一方,鉄道敷設免許にともない昭和34年2月20 日開設した伊東下田電気鉄道建設事務所は,創 立と同時に当社伊東事務所に引き継がれたが, その後,もともと旅館であったため経営規模の 拡大で使い勝手が悪く,また手狭となったこと から,39年12月1日,新事務所の完成とともに伊 豆高原駅に隣接している現在の伊東市八幡野 1151番地に移転した。
鉄道開通3周年に完成した同事務所は,すでに 周辺に当社車両工場,乗務区,保線区等の現業 諸機関が集結しており,経営および事務機能の 強化•拡充を図るうえからも,また今後の伊豆 高原開発の拠点として最適の条件を備えてい た。
鉄骨造2階建て,延べ面積1』791rfの規模をも つ新事務所は,総工費約4,800万円,立地条件を 最大限に生かした明るく開放的なデザインで, 当時としては斬新な建物であった。
昭和38年11月22日,伊豆急行労働組合結成大 会が開かれ,綱領および規約等が承認され,こ こに伊豆急行労働組合が誕生した。
昭和40年ころの本社事務所
34
——-
⑥第4章観光事業への本格参入
⑴待望の株式上場
初配当の実施と石毛社長就任
昭和40年代前半のわが国経済は,「構造不況」 を脱し,国民総生産(GNP)が米国に次ぎ世界 第2位となるなど“いざなぎ景気”といわれる高 度成長期を迎えた。
当社においてもこの時期,開業以来6年余で従 来の繰越欠損金全額を解消し,昭和42年(1967) 下期には当期利益9,252万円を計上し,剰余金と して351万円を計上することができた。翌43年上 期,年5%の初配当を実施することができた。44 年度には9%, 46年度には10%配当を実現した
(44年度から決算年1回に変更)。
昭和43年H月29日,五島昇社長が退任し,新 たに副社長田中勇が第二代社長に就任した。さ らに45年5月30日,社長田中勇が会長に,専務石 毛公済が第三代社長に就任した。
昭和46年12月10日,当社は伊豆急開通10周年 を迎えた。石毛社長はio周年を迎えるに当たっ ての抱負を次のように述べた。
「故五島慶太会長の熱意と実行力によって建 設された伊豆急は,:10年前,世の期待と注目を集 めて開通した。開通後の伊豆急は,草創期の苦 難をつぶさに味わったが,五島社長,田中社長 の2代にわたる指導と努力,そしてそれに応えた 全社員の不屈の精神により今日の伊豆急は築か れた。これからも鉄道,不動産,観光の三つを 基礎にして伸びてゆき,しかもそれぞれが相互
関係をもった―•”?の計画のもとに進んでいくべ きだと考える。
これからのレジャーは,旅館で酒を飲んで帰 るといった時代ではなく,伊豆は将来,青少年 を中心としたレジャーの一大拠点地になると思 われる。当社がその中心となり,自然を生かし たレジャー施設を整備し,豊かな人間生活回復 の場をつくり上げる必要がある。」
株式上場の実現
鉄道開通時の昭和36年12月,当社は地元の強 い要望から沿線の関係者に株式を分譲した。ま た,46年4月には東京証券業協会の店頭銘柄に登 録したこともあって,翌年9月には株主数も970 余人と増加し,株式流通への道を開くとともに, 上場審査基準をクリアしたことから,企業とし ての経営基盤の強化充実と業績の伸長を図るた め上場申請を行った。4カ月にわたる東京証券取 引所および大蔵省の審査を経て,47年10月27日 上場が認可され,翌11月1日から上場となった。
株式細目論見書
俨豆経4〒糕式会社
株式上場の目論見書
第4章観光本災への本格参入
35
——-
昭和47年11月1日,当社は開業11年目にして, 所期の目標の一つであった株式上場を果たし た。これにより東急グループとしては,第1部上 場が東京急行,東急不動産,東急百貨店,東急 車両製造,東急建設の5社,第2部が東急レクリ ェーション,浅上航運倉庫,白木金属工業,東 急ホテルチェーン,そして当社の5社となった。
なお,上場に当たっての株式公開は株式売り 出しの方法で行い,東京急行28万7,000株,東急 車両製造4万株,東急不動産,東急百貨店各3万 株,東急建設1万3,000株,計5社から40万株の放 出を依頼し,売り出し価格2,350円,幹事証券山 一証券,副幹事証券内外徳田証券,丸宏証券の 3社で売り出しを実施した。
また,上場に際しての一^3•の条件である株式 事務の証券代行機関への委託については,同年 10月27日開催の臨時株主総会において名義書換 代理人設置のための定款変更を行い,上場と同 時に三井信託銀行に委託した。
株式上場により当社は,社会的信用の向上, 企業のイメージアップなど有形無形のメりット を得たが,一方で当社に課せられた社会的責任 もまた厳しく問われることとなった。
社紋の変更
東京急行電鉄創立50周年記念事業の一つとし て昭和48年5月1日,同社広報委員会の手による 東急グループのシンボルマークが決定し,これ により当社も新しい統ーマークに変更すること となった。シンボルカラーも,ハワイアンブル ーから交通事業部門のカラーであるオレンジ色 とした。また,これを機に当社の英文社名も従 来のIZU EXPRESS RAILWAYから「IZUKYU CORPORATIONjに変更するとともに,それ
を新社紋に組み込むことにした。
統ーマークは,東急グループの理論構成であ る三角錐体をデザインしたものである。上の三 角形は,三角錐体の一面であると同時に東急の Tを図案化したもので,自社もしくは自社の所 属する事業本部を,また3本の弧は他の3事業本 部を意味し,マーク全体としては自社は他の3事 業本部に支えられて存在するという,東急グル ープの連帯感をうたったものである。
昭和44年3月,当社は事務関係業務の強化を目 的に初の電算機「TOSBACT100D」を導入し, 翌4月から賦金計算,水道温泉料金計算,クーポ ン券精算および請求の業務を開始した。引き続 き7月より給与計算事務も行った。しかし,小型 でソフト面でのバックアップもなく,成果を上 げるには至らなかった。翌45年8月,事務処理機 能のレベルアップをめざして,伊豆急サービス と共同で、「TOSBACT500」を導入,所期の目的 を達した。
その後「HITAC-8150」(48年6 月)JHITACL -330/6j (55年8月),「HITACL-470」(60年4 月),「FACOM・M730/6A」(平成3年10月)を 導入し処理能力の向上を図った。
昭和45年5月27日,東京地区勤務者の住居確保 のため,東急田園都市線の宮崎台に当社「宮崎 寮」が完成した。当寮は宮崎台駅より徒歩約6分, 東京タワー,富士山も眺められる高台にあり,
36
——-
渋谷の東京事務所まで40分で通勤で、きる好環境 下にあった。建物は,鉄筋コンクリート造,5階 建て,20戸(2DK)の規模で,建設費は3,700万 円であった。
昭和49年1月1日,労使間の協議で労働協約の 改定が行われ,非現業員の隔週週休2日制が実施 された。前年4月16日付ですでに実施されている 現業員の4週6日公休制と合わせて,全社的に週 休2日制への第一歩を踏み出した。
(2)お召し列車の運転と関連施設の増強
お召し列車の運転
昭和45年3月17日,天皇•皇后両陛下は3日間 にわたる伊豆地方の視察を終えられ,伊豆急下 田駅発午前11時2粉のお召し列車で帰京された。 平素から安全に関して全社を挙げて特別の努力 を傾けており,お召し列車の運転という大任を 無事果たし得たことは,当社にとってこのうえ ない栄誉であった。
46年11月5日,須崎御用邸が完成した。翌47年 2月22日,両陛下は御用邸完成後初めてご静養の ため,下田に向かわれた。同日午後4時10分,伊 豆急下田駅着のお召し列車で到着された両陛下 は,石毛社長,天野伊豆急下田駅長の先導によ り駅を出られ,お迎えの車でただちに御用邸に
向かわれた。翌23日,御用邸に召された石毛社 長は,謁見の間において単独で親しく両陛下に お目にかかり,「このたびはいろいろとお世話に なりました。これからもよろしく頼みます」と のお言葉をいただいた。29日午後,1週間にわた るご静養で伊豆の美しい初春を十分に楽しまれ た両陛下は,伊豆急下田駅発のお召し列車で帰 京された。私鉄業界においては,当社のように お召し列車を運転するということは異例のこと で,お召し列車の運転は,今日まで100回を超え ている。.
車両の増備と新駅の開設
昭和43年10月1日,国鉄運転時刻の全面改正の 実施にともない,当社は新造車4両を増備し,熱 海直通電車を大幅に増強した。その後も新造車 両の増備に努力し,47年末には当社の所有車両 数は客車53両,貨車等5両となった。
列車の増強にともない売上高の増伸を図るた
宮崎寮(川崎市)
お召し列車と伊豆高厚駅における両陛下
第”;:観光小業・、の本格参人
37
——-
め,積極的な旅客誘致対策の推進を行った。下 田エック(エコノミークーポンの略称),東伊豆 みかん狩りエック,伊豆めぐりフリーエック, 南伊豆エック,伊豆日帰りエックなど,当社と 国鉄との提携による一連の企画は,年を追うご とに業績は伸長した。
(注)エコノミークーポンは旅客が国鉄の指定したコー ス,観光地または区間を国鉄線および他運輸機関を利 用して旅行する場合,乗車券と急行券,特別車両•船 車券,寝台券および座席指定券と組み合わせたものを 同時に購入する場合に限って発売。
運賃は割引(3割引以内)または特定し,船車券類およ び宿泊券類の運賃と料金は割引または特定したもの。
昭和44年3月1日,昨年まで夏季期間のみ臨時 営業を行っていた今井浜海水浴場駅が,新たに 「今井浜海岸駅」と改名され常時営業を開始し た。
当社は同年:11月,東京旅行事務所を新設し, 法人団体旅客の獲得を図るとともに,新規誘致 策としてイi廊崎観光花狩園の開設,伊豆フラワ ーエック.,民宿パックの発売,てくぱっく (ハ イキング)等;の会員%集などを実施するととも に,PR映画『南伊豆の旅』を制作した。
昭和45年は,前年秋から始まった金融引き締 め政策により景気は下降傾向のうちに経過し た。また,大阪では3月から9月までII本万国M 覧会EXPO’70が開催され,その間当社にうえた 影響は多大なものがあった。こうした情勢に対 処するため,宣伝および誘客面の強化策として, 伊豆の味,地びき網,花狩り,ハイキングなど を織り込んだ各種会員募集を行うとともに,協 定民宿の拡大を図った。
46年5月1日,“青い海といで湯の伊豆半島へ”
をキャッチフレーズに,東京と横浜の両駅の旅 行センターに初の「伊豆コーナー」が開設され, 人気を呼んだ。これは国鉄の“ディスカバージ ャノヾン”のキャンペーンの–9で,同コーナー ではグループ,団体旅行の引き受け,旅館から 遊覧船,サイクリングやハイキングにいたるま で予約を受け付けるとともに,伊豆フリーキッ プの発売,指定券の予約などを行い盛況をみせ た。
47年3月には,別荘地の利用客や地元の人々か ら実現が待たれていた「城ケ崎海岸駅」が営業 を開始した。当駅周辺には,当社分譲地だけで すでに200棟以上の別荘•保養所があり,駅の開 設まで別荘の建設を手控えていた顧客もかなり あり,開業を契機に別荘建設はいちだんとスピ ードアップした。
花狩り園(石廊崎)
38
——-
川奈駅の衝突事故
関連設備の増強と防災対策
昭和43年6月18日午前10時30分,川奈駅構内 で、,伊豆急下田駅発上り574列車(3両編成)と 熱海駅始発下り63历リ車(7両編成)が接触衝突, 上り電車の1両目が脱線した。この事故で脱線車 両の乗客3人が重傷,48人が軽傷を負った。
事故現場の復旧作業は,レッカー車4台により 行われ,同日午後11時4分完了した。また,その 間の旅客輸送は,東海バス13台により運行され た。
当社にとって鉄道開通以来初めてのこの事故 は,「伊豆急だけは安全」と信頼していた利用者 を裏切る結果となった。加えて,事故の直接の 原因が当社運転士の居眠り運転によるものだけ に,非難の声は当社に集中した。
当社は事故発生とともに,ただちに対策会議 を開き,被害者の救済を第一とし,次いで①従 業員,特に運転士の指導と労働管理の強化,② ATSなどの安全設備の完備,③ダイヤ編成の再 検討,などを決定した。
川奈事故を機に,それ以降,当社は毎年6月18 日を「無事故誓いの日」とし,1月18日には無 事故祈願を行い,また毎月18日には事故防止対 策委員会を開催し,二度と事故を起こさぬよう 安全への教訓としている。
当社線は,開業当初は降雨による土砂崩れ, 落石などで事故が多発し,“雨に弱い伊豆急”と いうありカ*たくないニックネームを贈られるほ どであった。
伊豆半島の年間平均降雨量は2,5001nmから 3,000mmもあり,連続降雨量で200mmを超すもの が年に数回,100mm以上の雨は年に十数回を数 え,時雨量で30mm, 40mmの雨が降ることが再三 であった。当社では,全線7カ所の雨量計設置駅 を定めて測定し,運転司令所で刻々の雨量を集 計し列車運行に対処した。また,過去の経験か ら連続降雨量が100mmを超すと,要注意個所で時 速45km以下の徐行を行うと同時に,保線では線 路巡回,要注意個所の警戒に当たった。さらに, 連続降雨量200mmを超すと,25km以下の徐行運 転,ないしは運転の停止を行った。
川奈駅構内における列車事故の発生後,事故 防止対策委員会を設置,全線,全列車にATSを 設けることを決定し,翌44年7月1日より使用を 開始した。また,近い将来,列車無線,CTC (列 車集中制御)化を図り,列車の運行に万全を期 すことを決定した。
伊東駅一血豆急下田駅間46kmの鉄道に電気を 供給するため,当初は南伊東,伊豆高原,稲取,蓮 台寺の4カ所に変電所を設置した。その後,富戸,
城ケ崎海岸駅
事故現場(川奈駅)
第4靛観Iもヽの本格参人
39
——-
北川,河津の3変電所を増設した。さらに,鉄道 運営のより合理的かつ効率化を図るため,変電 所の遠方監視制御の設置を行った。これは伊豆 高原変電所を親変電所とするもので、,その結果, ①変電所の運用効果,②異常時や事故時の処理 を電力指令が総合的な見地からの敏速な判断, ③保守要員の効果的な配置,などが改善された。
また,同設備の新設にともない,45年8月,運 転事故の防止対策の一環として,地震発生時の 運転取り扱いの指示事項を関係部署に通達し, その徹底方に努めた。さらに,翌46年12月には, 運転司令組織の変更を行い,運転司令所を伊東 事務所に移転し,地震の取り扱い方を改正し, 地震計を当社線内の伊豆高原に設置,運転司令 所には指示警報器を備えた。
⑶ 別荘地分譲の増販と貸別荘の開設
伊豆高原南大室台の分譲開始
伊豆高原分譲地も発売開始以来,別荘地とし ての名声は年ごとに疝まり,その人気は不動の ものとなaた。同分譲地内の建物(寮,保養所 など)も昭和42年には250棟となり,その後も増 加を続け,17年末には800棟を超えた。
こうしたなかで,さらに伊豆高原の規模を拡 大し,イメージアップ’を図るため,大室山南麓
一帯約33万mを第3期工事として着手した。45年 8月,第1次造成工事も進抜したことにより「伊 豆高原南大室台」として販売を開始した。
この地区は,池部落の東北側の遠笠有料道路 南側から伊豆高原第5次地区に接する一帯で,伊 豆高原の分譲地としては一番標高の高い地域で ある。北側はモミ,カヤ,黒松などの針葉樹の 大木をはじめ,シイ,カシ等の常緑樹がうっそ うと茂り,東南傾斜地にはクヌギ,コナラ,ヒ メシャラ,フジザクラ等の落葉広葉樹の茂る明 るい高原情緒豊かな台地となっており,別荘地 の環境として最高の場所の-5であった。
景気の冷え込みで,この春以来ふるわなかっ た分譲地の売れ行きを,南大室台で一気に取り 戻すべく販促大作戦が展開された。一時期,売 り出し前夜に希望区画を確保したいという顧客 が,東京事務所のある渋谷東急ビル裏口に徹夜 で行列をつくり,話題となったことがあったが, 今回はダイレクトに現地で説明会と受付を同時 に行うこととした。この作戦は見事に当たり, 2日間で55区画,総額3億1,000万円に上る成果を 上げた。これは不動産部開設以来の新記録であった。
温泉付き貸別荘の建設
昭和47年7月15B,当社開発部事業課による宿
南大室台分譲地
温泉付き貸別荘(伊豆高原)
40
——-
泊業への進出をめざして初の温泉付き貸別荘 カS,伊豆高原ファミリーセンター隣地にオープ ンした。全10棟,木造平屋建てのこの別荘は, 後述する「ルネッサ」への布石となった。その 管理は伊豆ガーデンに委嘱した。
労働時間の短縮や余暇の増大傾向にあるな か,個人で別荘を確保できない人々を対象とし て開設されたこの貸別荘事業は,予想以上の成 果を上げた。
城ケ崎地区の分譲開始
昭和47年4月,当社は城ケ崎海岸駅の開設にと もない,.新たに伊豆高原城ケ崎地区として造成 に着手するとともに,第1次として32区画の販売 を開始した。この分譲地は,総面積39万d,650 区画の別荘地として計画した。
当別荘地は,城ケ崎海岸にのぞみ,遠く伊豆 大島を,背に天城の連山を負う景勝の地にあり, また既存の分譲地から離れた単独の区域のた め,日常生活の精神的な疲れをいやし,余暇を 楽しみたいと願う人々が満足できる環境づくり をめざした。
飲料水は,当別荘地が伊東市の給水区域内に あるため,同市上水道から給水を受けることと した。
別荘地の管理は伊豆ガーデンに委託し,最新
の管理システムを導入し万全を期した。さらに, 新装備による排水および衛生設備の開発は東急 興産に委嘱した。その結果,汚水処理場は2,400 人/日,725m3の処理能力をもち,三次処理施設 のある汚水処理場として,別荘分譲地では日本 最大の設備が完成した。
荻分譲地の販売開始
当社は,石油危機後の総需要抑制策の浸透に より伊豆高原分譲地の販売業績が鈍化したこと から,伊東市民を中心とした住宅需要に対し住 宅地開発に本格的に取り組むこととなった。
昭和49年12月1日,住宅地開発の第1号として 伊東市郊外の荻で第1次,63区画の分譲を開始し た。同地区は,総面積約27万m,400区画を予定 し,集中浄化施設をはじめ建築自主規制を行い, 別荘地に劣らない住環境の確立を図った。
(4)観光関連事業の推進
ホテル伊豆急新館の建設
昭和49年7月1日,本格的シーサイドリゾート 開発の一環として,白浜レステル別館に隣接す る場所に新館を増設し,「ホテル伊豆急」として 再スタートした。これにより当ホテルは,南伊 豆最大の宿泊施設となった。
城ケ崎海岸駅前分譲風景
荻分譲地(造成前)
第4章 観光事業への本格参入
41
——-
総工費は15億円,鉄筋コンクリート造,地下 1階•地上6階建て,客室数122室,収容人員574 人で,既存の施設と合わせると客室数164室,収 容人員は761人に増大することとなった。
館内の主なる施設は,レズトランシアター「太 陽」(688席),レストラン「くろふね」(184席), ラウンジ(46席),バー「アモール」,ボーリン グ場(6レーン),アミューズメントコーナー, ゲームセンターなどがあり,ほかに駐車場(バ ス50台,乗用車300台)を付設した。
伊豆ガーデンの設立
昭和47年5月1日,当社は資本金200万円で㈱伊 豆ガーデンを設立し,常務取締役今村知雄が社 長に就任した。
伊豆ガーデンは,伊豆高原分譲地をよりいっ そう,自然と調和した美しいものとするために,
ホテル伊豆急
その環境の維持,整備を図るとともに,年々需 要の増加している建築,造園工事の斡旋,請負 ならびに植木の販売等を行う会社として設立し た。
さらに,50年4月には,伊豆高原での別荘建築 の請負業務に進出,別荘地の環境整備,管理サ ービス面の機能を強化すべくサービス部門を新 設,積極的な営業活動を展開することとなった。
当初は建築業者としての資格がなかったた め,その業務も業者への工事の斡旋のみにとど まっていたが,昭和50年1月,特定建設業の登録 が認可され,元請け業者として本格的に営業で きるようになった。そのため同年7月には,東京• 渋谷に営業所を開設し,また設計•施工管理等 の技術スタッフの充実を図るなどして業績の向 上を図った。
同社は56年6月23日,㈱伊豆急ハウジングに商 号を変更し,総合建設業として発展を続けてい る。
愛染堂の建立
伊豆急開通10周年記念事業の一つとして,東 急グループ各社の協力を得て,愛染明王堂の建 立を計画し,昭和49年6月11日,落慶入仏式を行 った。
レストランシアター “太陽”
愛染明王堂
42
——-
式は京都の名刹,大覚寺味岡良戒大僧正を導 師とする入仏法要に始まり,次いで東急グルー プを代表して五島社長の挨拶,来賓の石井基下 田市長の祝辞があり,盛況裏に終了した。
特に五島社長の挨拶は,この山頂に愛染明王 像を奉安するにいたったいきさつを述べるとと もに,五島慶太翁と伊豆の生んだ偉大な政治家 であり,かつ伊豆へ鉄道を敷くことを悲願とさ れていた小泉三申,そして同氏愛蔵の愛染明王 像にまつわるエピソードを披歴した。
故五島会長記念碑に隣接し,法隆寺夢殿を模 した本堂は実物の3分の2のスケールで、,鉄筋コ ンクリート造本瓦葺き,ほかに社務所兼休憩所, 庭園等の施設が完備している。また,本堂には, 五島会長遺愛の重要文化財指定の愛染明王像の 実物大復刻(芸術院会員•和田金剛作)が安置 されている。
愛染堂大祭(6月11日)は,それ以来,下田 市,長楽寺住職天野隆玄によって伊豆沖地震遭 難者の霊を慰め,小泉三申,五島会長の偉業を たたえ,東急グループ物故者への回向,国家安 穏,万民快楽,東急グループの隆昌と従業員の 安全,そして参拝者の請願成就を祈願して執り 行われている。
運慶の作(鎌倉中期)といわれる愛染 明王像は,像高103cmの木造で,長らく鎌倉の薬師堂に安 置されていたといわれる。その後,同像は数奇な運命を たどることとなる。
愛染明王像は,明治元年,政府による神仏分離令によ って鎌倉の鶴岡八幡宮,次いで東京西多摩郡の普門寺の 塔頭であった新開院へと遷座した。
明治19年,15歳の小泉三申は,南伊豆小浦の潮音寺住 職で小浦小学校の教師でもあった前嶋元策に数年間愛 育された。前嶋は,その後伊豆桜田村の郡定寺,次いで 上述した普門寺の住職となった。
明治41年,小泉三申は一別以来21年ぶりに恩師前嶋と 再会し,その折に前嶋から愛染明王像の勧請供養の要請 を受けた。さらに,3年後の44年6月,愛染明王像は前嶋 差し回しの馬にく くりつけられて,三申の寓居に運び込 まれたという。
翌45年,三申は東京•四谷本村町に愛染堂を建立し, 同像を安置した。さらに大正12年,三申は東京•麻布広 尾の南部坂に初めて自邸を新築するとともに,屋敷内に 愛染明王像を安置する柯蔭精舎を建立した。
一方,同時期に鉄道省に奉職していた五島会長は,仕 事を兼ねて三申邸を再三訪問し友好を深めるなか,三申 から愛染明王像を託された。
五島会長の没後,愛染明王像は国立博物館が保管し, 現在は五島美術館に収蔵されている。
愛染明王堂(五島美術館蔵)
第.1章:視)I本業への本格参入
43
——-
■第5章試練の口寺代を迎えて
(1)低成長時代への対応
石油危機の後遺症と伊豆群発地震
昭和48年(1973)10月の中東戦争を契機とす る第1次石油危機の発生は,エネルギー高価格に 起因する諸物価の急騰,インフレ懸念から金融 引き締め,総需要抑制を招き,わが国は大型不 況の時代を迎えることになった。
このような経済環境の激変によって,国民の 生活感覚は,以前の“消費は美徳”から一挙に 耐乏生活へと様変わりした。
当社の業容もまた世の中の動きと軌を一にし て,観光•レジャー需要の逓減により,10年余 に及ぶ苦難の道を歩むこととなった。
54年I月の第2次石油危機もさることながら, 49,51,53,55年と隔年の伊豆地方の群発地震は,
“駿河湾大地震説”をも喧伝するところとなり, 観光地伊豆は大きな打撃を被っただけでな<, 観光客の足も伊豆から遠のく結果となった。
51年7月の片瀬白田の集中豪雨により鉄道は2 週間の不通となり,さらに53年1月の「伊豆大島近 海地震」では,鉄道が伊豆稲取駅一河津駅間で寸 断され,電車は5カ月間全面運休しバス代行輸送 を余儀なくされた。鉄道の復旧工事は1年を要 し,その費用は23億円,間接被害を含めると40 億円を超えた。さらに,その間,集中豪雨や冷 夏などの災害に遭遇するなど,当社にとっても きわめて厳しい経営を強いられることになっ た。
次表に示すように,当社の運輸事業は50年度 を境に極度に悪化し,もう一•”□の柱である不動 産部門の営業利益でカバーしてきたのである
定期外輸送人員と損益推移表
年度 定期外輸送 人員 (千人) 定期外連輸 収入 (百万円) 鉄道業仙業 利益 (仃万円) 鉄道業経常 配当 (%) 摘 要
描 (H: 益 万円)
昭和48 7,809 2,141 375 △ 141 10
49 7,649 2,379 209 △ 225 7 49.8.3運賃改定 49.5.9伊豆半島沖地震
50 7,608 2,629 400 △ 135 7 51.1.28運賃改定
.51 6,826 2,676 295 △ 204 無配 51.7.10集中豪雨による 片瀬白田一伊豆稲取間土砂崩壊
52 6,452 2,550 △11 △ 472 〃 53.1.5運賃改定 53.1.14伊豆大島近海地震
53 6,002 2,861 151 △ 355 〃
54 6,197 3,145 251 △ 287 〃 55.1.8運賃改定
55 5,472 3,119 91 △ 498 〃
56 5,664 3,241 87 △ 436 〃
57 5,609 3,641 361 △ 120 〃 57.4.20運賃改定
58 5,536 3,598 383 △ 131 〃
59 5,588 3,947 571 128 〃 59.4.20運賃改定
60 5,875 4,201 575 153 〃
44
——-
が,51年度に至ると鉄道業の営業損失は激増し て43年以来堅持してきた株主配当も見送らざる を得ず,繰越欠損金を計上する事態に追い込ま れたのである。
白石社長就任と鉄道の合理化
この激動の時期,昭和51年3月,低成長下にお ける多難な時代への対応を迫られるなかで、,田 中勇会長が退任し取締役相談役となり,石毛公 済社長が会長に,社長に白石安之がそれぞれ就 任した。
苦難に耐え,再建と将来への布石として当社 は,企業体質の強化,各事業部門および関連会 社の増強,新規事業の開発を図ることとなった。 また,当面する最大の急務である災害復旧工事 の進抜,旅客誘致の策定,赤字からの脱却,設 備の近代化および合理化など当面する課題に取 り組んだ。
事業の三極化
当社は,昭和50年3月,地方鉄道業会計規則の 一部改正にともない,旅行斡旋業を鉄道業から 分離することを機に,業務の再編成を行うこと となった。
経営内容の充実と業績の伸長を図るため,昭 和50年度以降は従来の「鉄道業」「不動産業」の ほか,新たに観光開発事業を主とする「その他 事業」を加えて3本柱とし,鉄道業からは旅行斡 旋業等を,不動産業からはホテル伊豆急,サン プラーザなどを中心とする土地建物賃貸業と温 泉事業,水道事業等の分譲地付帯業をその他事 業に移行した。
開通20周年記念祝賀会の開催
当社は鉄道開業以来20年を迎え,昭和56年12 月10日,異例ともいえる地元2市6町を発起人と する「伊豆急開通20周年記念祝賀パーティー」 カS,ホテル伊豆急において五島社長はじめ多数 の来賓の臨席のもとに盛大に催された。
主催者の市長•町長はじめ東急およびグルー プ各社より心からの祝福を受けた。席上,白石 社長は「当社はここ数年来,地震•水害などの 天災にたびたび見舞われ,観光客の伊豆離れに よる苦難の時代が続いた。しかし,ようやく後 遺症が消えて回復の兆しも見え始めてきた。こ こで21年目の出発を機会に,開通当時を想起し て初心に帰って社業に邁進したい」旨のお礼の 挨拶をした。
横田社長就任と業容の立て直し
昭和58年6月,白石安之社長が取締役相談役
伊豆急開通20周年記念祝賀バーティー
第5章 試練の時代を迎えて
45
——-
に,専務横田二郎が社長にそれぞれ就任した。
就任後のスピーチで横田社長は,現在の当社 力マ抱える問題にふれたあと,「流通事業にしろ不 動産事業にしろ,それぞれが厳しい市場競争裏 に’おかれており,それから上がる利益の一部を 取り上げて他の事業の赤字を埋めろというのは 自由競争下の経済原理を無視した議論になる」 とし,さらに次のように述べた。
「私鉄の多角経営も同様で,そこから上がる収 益はその事業に再投資するのが筋というもので ある。それが結果として沿線のお客さんを増や し,鉄道の収入が増えていくという考え方が正し いのです。鉄道にとって多角経営をそれ以上のも のとみるのは間違っています。鉄道は鉄道でや ってゆけるよう方策を講じる必要があります。」
⑵ 運輸営業環境の急変
伊豆大島近海地震の発生と災害復旧への努力
伊豆地方は,昭和33年9月の狩野川台風以降大 きな災害はなかったが,49年5月の伊豆半島沖群 発地震,さらには55年6月の伊豆半島東方沖地震 (M6.7)が発生した。なかでも53年1月14日に発 生した「伊豆大島近海地’震」(M7)は,“レジャ ー冷え”さなかの観光地伊豆を,そして当社を
地震による稲取トンネル内の惨状
急襲した。
午後0時24分,地震は当社路線全域を直撃し た。本社事務所の運転司令室の地震計が震度5を 指した。そのとき,45.7kmの当社線には7列車が 走っていた。何よりも不幸中の幸いは,列車に 被害がなく,約1,600人の乗客に:1人の負傷者も 出なかったことであった。万一,地震の発生が 数十秒前後していれば,重大な事態を招いたと 思われる。
4年前に伊豆沖地震を経験し,この1,2年は東 海地震の恐怖にさらされてきただけに,当社と しても地震の際の処置に関する教習を繰り返し 重ねてきたため,社員それぞれに,そのとき自 分がやらねばならぬことの認識が強かった結果 であるといえよう。
当社は,一日も早い開通をめざして昼夜兼行 の復旧作業を行い,約5カ月後に不通個所である 稲取トンネルが開通したが,全線の完全な修復 工事は同年末までかかった。(被害個所31,鉄道 復旧総工事費約20億円)
当社は,伊豆稲取駅一河津駅間の復旧が大幅に 遅れたため,1月31日から6月15日の間,東海バス の支援を得て代行輸送を行った。また,この危 機を乗り切るため「激じん災害に関する法律」
(再雇用を前提とした一時休業)の適用を考え たが,その及ぼす影響の大きいことを配慮して 同法の適用を見合わせ,その代わりに40人の駅 務員を東急線各駅に派遣,勤務させていただい た。
旅客誘致対策の推進
経済不況とたび重なる天災により,昭和52年 度は開業以来初めて鉄道営業収益は減少し,前 年実績を下回るという最悪の結果となった。さ
46
——-
らに55年には,地震と例年にない冷夏のため, 業績不振はさらに深まり,この状況は59年まで 続いた。
その間当社は,観光地伊豆のイメージアップ を図るため,さまざまな活動を行った。53年6月 15日には,全線開通を祝い東京からの直通電車 “あまぎ号”を折からのあじさい祭りに合わせ て“あじさい号”として運行した。54年には NHKの大河ドラマ「草燃える」の史跡を中心と した企画により積極的な誘客活動を行った。ま た,季節ごとの催し物として,一時中断してい た竹の子狩りやわらび狩り,桜祭りや夏の朝市 などを地元市町村の協力を得て開催した。
56年には,文字どおり海と山とふれあうバラ エティーに富んだセット旅行を企画し,また8月 には「ロック•イン•ザ•スカイ伊豆」と銘打 ち,伊豆バイオパークにおいて伊豆では初めて の野外音楽祭を開催した。
国鉄では,同年io月1日より伊豆半島への急行 列車をすべてL特急とし,名称も“あまぎ号”か ら“踊り子号”に改名するとともに,車体も明 るいカラーの新型車を導入してイメージの一新 を図った。
当社は,国鉄をはじめ地元市町村や関連団体 との提携をさらに強化し,58年には電気機関車
牽引のブルートレイン,お座敷列車,欧風客車 (サロンエクスプレス東京)の運転を初めて行 うとともに,熟年婦人層を対象に「ナイスミセ スの湯話味旅行」やヤングレディー層を対象と した「レディースジョイ下田」などの企画商品 を販売し,積極的に誘客に努めた。翌59年には, 稲取高原にクロスカントリー専用常設コースを 設け,東伊豆町•報知新聞が主催し,東急グル ープの全面的な協力によって「とうきゅうカッ プ報知東伊豆クロスカントリー大会」を開催し た。その後3,000人規模のイベントに成長,地元 と密着した大会運営が行われている。
鉄道設備の近代化
当社は,昭和49年ごろから鉄道の体質改善, すなわち生産性の向上,単一業務の機械化,よ り正確な列車運行とそれに伴うサービスの向上 などを目的として,PTC (プログラム式列車運 行集中制御装置)の検討を重ねてきた。し力、し, 天災によるダメージは大きく,同計画の実施は 予定より大幅に遅れることとなった。
しかし,52年に着手した運転保安を兼ねた列 車無線の導入,各駅の継電連動装置の改良など を行い,57年10月1日には待望のPTCが完成し, ただちに使用を開始した。PTCの導入による成
桜祭り(伊豆高原駅前広場)
クロスカントリー大会(東伊豆町稲取)
第5章「試練の時代を迎えて
47
——-
果は次のとおりであった。
①当社線全体の流れを常時運輸指令で把握す ることができ,異常時における適切な処置 を迅速,正確に行い,運行の乱れを最小限 にとどめることが可能となった。
②平常業務の自動化による指令員の労力軽減 と扱い者の省力化が図られた。
③各種記録の自動化によって能率的な処理が 図られた。
④扱い者の監視と操作が容易になった。
⑤国鉄との相互乗り入れを行っているため, 列車遅延の処理(種別,行き違い,番線, 時刻,分割併合など)をあらかじめ行える ようになった。
不況下の運賃改定
昭和49年から56年の8年の間に4度の旅客運賃 ならびに運輸料金が改定された。これは,たび 重なる災害と史上最悪といわれる経済不況によ る観光客の減少,それに物価の高騰など経営を 圧迫する要因が市なったための,やむを得ず行 ったものであった。
当社は総旅客の7()%を定期外旅客に依存する 特異な観光路線で,ピークに介わせた設備容量 を必要としながら,それが稼働する平均値は低
列車運行集中制御装置(PTC)
い。ちなみに,県内私鉄各社の旅客中に占める 定期外旅客は,軒並み50%程度である。
“リゾート21”発進
昭和60年7月20日,当社は「21世紀へ進む鉄道 車両への一つの提案」として新型車両”リゾー ト2ドの運転を開始した。
乗って楽しい電車をつくるには,既成概念に とらわれない発想が要求された。社内から素人 12人が集められ,車両メーカ•-を加え「乗って 楽しい車両」の追求が始まった。運転士だけが 見ている前面の最高の景色をお客さまに開放 し,海の景色を見るのに「海に向いた座席」が あってもよいし,ゆったりシートの採用で定員 が減ってもかまわない。多客期と閑散期の双方 をねらった「多目的仕様」で、はなく,ターゲッ トを閑散期にしぼる,等々をコンセプトとして “リゾート2rが登場した。
新型車両“リゾート21
48
——-
「ゆとり」をコンセフ。トとするこの2100系車両 (製造•東急車輛)は,わが国初の車内非対称で, これまでの電車のイメージを一新し,脚光を浴 びた。
車体の外装は,全車両(6両1編成)ともシル バーホワイトをベースに,海側に鮮やかな伊豆 の太陽を象徴する赤,山側は碧い海をイメージ する青のラインを配した斬新なデザインとし た。
インテリアは,海側の窓は風景を楽しめるス ケルトン風連続窓で,ワイドな窓に向かって3人 掛けのゆったりしたシートが並び,太平洋を一 望できるようにセットした。また山側は,談話 の場として個室風小窓とし,プライベートな1人 用シートを配置した。また,1両の座席を50に抑 え,普通の車両より20〜30席少ないゆとりのあ る空間とした。さらにデッキ部には,他に例を みないサンルーフ(天窓)を設け,列車最前部 と最後部はワイドビューな正面窓を採用すると ともに,階段式配置の座席により視界180度のパ ノラミックな展望が楽しめるよう設計した。
リゾート21は,各駅停車の普通列車として伊 東駅一伊豆急下田駅間を1日4往復,同年10月には 伊東線熱海駅まで乗り入れた。また,この列車に はわが国初の「車両リース」を採用,6両編成のう
業務中の乗客掛
ちの中間車2両に導入した。
全国から列車の愛称を一般公募して決定(金 賞•神奈川県大磯町在住福西邦彦)したリゾー ト21は,女性乗客掛を乗務させて車内サービス に当たらせるなど新戦術をとったこともあっ て,鉄道ファンだけの話題にとどまらず,広い 層の利用者,地域振興を望む地元関係者にも多 大の関心を呼び起こす結果となった。
⑶土地規制と販売の苦闘
新土地税制と国土法の影響
昭和48年4月,土地買い占めの規制と地価騰貴 の防止を主目的とした土地税制の改正が施行さ れた。また,翌49年12月には,土地利用の基本 計画を策定し,土地取引の規制を強化すること によって地価の高騰,土地の買い占めおよび乱 開発の防止を目的に「国土利用計画法」が施行 された。
また,従来「自然公園法」により,建物につい ては建ぺい率20%,高さ10m以下と制限されて いたのに加え,45年から48年にかけて改正され た同法の諸規制により,分譲1区画「500m2以上」 が「1,000m2以上」となった。
両法の施行により当社は営業上重大な影響を 受け,別荘分譲のありかたを見直し,再構築す る必要に迫られた。
「土地販売総セールス運動」の促進
第1次石油ショックによる景気の停滞が続く なか,当社は業績の回復と販売力を打効かつ機 動的に発揮できる体制づくりとして,昭和52年 9月,従来の営業セクションとは別に「販売プロ ジェクトチーム」を結成し,東京を中心とした
第5 a 試練の時代を迎えて
49
——-
新規顧客の開拓に懸命の営業活動を行った。
また,56年には,顧客のニーズにマッチした 商品の開発や営業体制を強化することを目的に 「土地販売総セールス運動」を実施し,とりわ け法人向けのセールスを積極的に展開した。
首都圏初の戸建住宅の販売
当社は首都圏での住宅販売を目的として,54 年7月,東京事務所に不動産住宅営業課を発足さ せ,首都圏における初の木造建売住宅「野川南 台」「市ケ尾」などを販売したが,徐々に用地の 確保が困難になり,60年4月の「あざみ野」販売 を最後に同課を閉鎖した。
沼津•静岡営業所の開設
静岡県中央部を中心とした住宅用分譲地の開 発を行うため,昭和54年10月,沼津,静岡に営 業所を新設した。沼津営業所では丸子町(6区画), 日吉(7区画),東原(51区画),富士宮市山本(25区 画),旭ヶ丘(20区画ケ富士市厚原台(62区画),ま た静岡営業所では占田町日の出台(29区両),第 二日の出台(21区画),こ岡市大岩(4区画),西の 宮(5区画),バークタウン(13区画I)の販売を行い 一部建売を併用し完売したが,不動産版売の当 初の目標は達成できず,沼•津’附業所は61年4月,
静岡営業所は翌62年3月,それぞれ閉鎖すること となった。
リゾート129城ケ崎の販売
昭和58年7月3日,伊豆半島東海岸の国立公園 内で初のマンション「リゾート129城ケ崎」が完 成し,ただちに販売を開始した。
このリゾートマンションは,城ケ崎第7次地区 のなかにある敷地総面積9,730m2,伊豆七島を見 渡せる眺望抜群の場所に位置している。建物は 鉄筋コンクリート造2階建て全2棟で、,面積1,517 m1,総戸数24戸(2LDK8戸,1LDK16戸,7タイ フ。),1戸平均専有面積54.21m、販売価格は1戸平 均2,200万円,全戸温泉付きであった。
国立公園内にリゾート開発,とりわけ分譲地 の開発や別荘等の建設は,49年の2法(国土法, 自然公園法)施行以後,厳しい経営環境のもと にあり,こうした厳しい諸規制のもとでリゾー ト129城ケ崎を介して当社が企図したことは,① 不動産の区分所有の普及,②未利用地の新たな 開発商品化,③低価格商品の供給などであった。
分譲地のリサイクル化
伊豆高原における既分譲地は,建築済みの区 画が多いとはいえ,50年代に入っても更地の
マンション「リゾート129城ケ崎」
50
——-
ままで建物のない個所がかなり多かった。建設 未定の理由としては,世代交代などで別荘建築 に意欲をなくしていること,庭付き別荘は手入 れなどに面倒があること,そのため管理の楽な リゾートマンションに魅力を感じていること, などが挙げられる。
当社は,こうした人たち,特に早い時期に別 荘分譲地を取得した土地所有者を対象に,未建 築の土地を買い戻し,代わりにリゾート129城ケ 崎を販売するという営業方針でのぞんだ。
この買い戻し制度は,第1次石油ショック後に 顕在化し,年度別の買い戻し区画数(伊豆高原) をみると,54年度20件,55年度40件,56年度25 件,57年度22件となっている。こうした未利用 の土地を商品化することは,当社の不動産事業 の新たな質的転換ともいえるものであった。
一方,傾斜地や複雑な地形のため分譲困難で 残地となっていた地域にも,マンションが建設 できる可能性が生まれたということで、,リゾー ト129城ケ崎は,第二,第三のリゾートマンショ ン建設構想の出発点となる画期的な開発商品と なったばかりでなく,60年代における当社不動 産部の中核商品となった。
(4)関連事業の増進
サンプラーザの設立
当社は,経営多角化の一環として,伊豆急線 の主要駅を核とする周辺地域の再開発構想を進 めてきたが,その第一弾として昭和51年2月12 日,伊豆急下田駅前にショッピングセンター「㈱ サンプラーザ」を当社と東急ストアとの共同企 画事業で設立した。資本金3,000万円(伊豆急グ ループ2/3,東急ストア1/3),専務千葉胤比古が
社長に就任した。
ショッピングセンターの建設および流通部門 への進出構想は,48年の第1次石油ショックを機 に具体化し,その後当社開発部が東急ストアの 支援を得て流通機構,消費者の購買志向,さら には店舗集団の形態等についての研究を積極的 に進めた。
サンプラーザは,51年6月着工,翌52年4月20 日にオープンした。建物は,鉄筋コンクリート 造2階建て(一部3階),延べ面積約6,6001rf,キー テナント に東急ストア を迎え, 10店のブティッ ク,9店による“味ののれん街”があり,伊豆半 島では最大規模を誇る本格的なショッピングセ ンターとなった。
伊豆バイオパークの開設
当社は,サファリパークをめざして東日本で は最初の自然動植物公園「伊豆バイオパーク」
伊豆バイオパーク(東伊豆町稲取)
第5章:武練の時代を迎えて
51
——-
を東伊豆町所有地に建設し,昭和52年10月1日オ ープンした。
敷地約165万壮,総工費20億円をかけたこの施 設は,当社観光事業部門の拡充と,人間性の回 復および自然回帰への社会的な要請にこたえる 目的のもとに,東京農業大学近藤典生教授の指 導を得て,既存の観光施設とは異なる視点から 創案した画期的な施設となった。
園内には,キリン,シマウマ,サイなど69頭, ダチョウ,フラミンゴ,ダイアナモンキーなど が放し飼いされる一方,日本で初めての試みで あるマウンテンシマウマ,ゲムズポック(しか 類),珍鳥シュービルストーク(あおさぎ科)の 飼育が行われ,大いに注目を集めた。
伊豆バイオパークの開園は,内外に大きな話 題を呼んだ。特に長期の経済不況と連続的災害 によって苦難の道を歩んできた地元の人々は, 旅客誘致のエースとして期待をもって迎えた。
下田開港記念館の開設
昭和51年3月2211,当社は下田•寝姿山山頂に 「下田開準汜念館」を建設し,同IIオープンし た。
この記念館は,これまでのH浜レステル内に 展示されていた故森斧水のコレクション(幕末
から明治にかけての下田開港の歴史にまつわる もの150点)を展示したものである。その後,昭 和60年4月から同記念館は「蓮杖写真記念館」と して再開設した。
遊覧船“黒船”初就航
“南伊豆は海から”をキャッチフレーズに,下 田港内周遊,下田一石廊崎間および石廊崎周辺 めぐりを主航路にして営業を続けてきた伊豆急 海運は,昭和49年以降の地震•水害による直接 被害とその後遺症から観光客が激減し,また冬 の季節風による欠航日の多発が重なり営業に苦 しんでいた。
55年7月,不況下における業績の回復を図るた め同社は,第2天城丸を黒船型改造遊覧船として 就航させた。この船は,同社が所有していた4隻 の旅客船のうちの1隻を,幕末の下田住民をびっ くり仰天させた蒸気船をまねて水車や大砲を据 え,船体も黒色に塗装するなど全面改造したも のである。
この黒船型遊覧船は,その後に就航した”サ スケハナ”.のプロローグとなったものである。
下田開港記念館
航行中の遊覧船”黒船”
52
——-
♦第6章地域とともに歩む伊豆急行
(1)経営体制の充実
松尾•大木新体制の発足
昭和50年代末に至ってわが国経済は,第2次石 油危機以降続いていた景気後退もようやく底を うち,58年(1983)には回復過程に入り,同年 7月には経済企画庁が“景気底離れ宣言”を出す までに回復した。それにともない民間設備投資 も活発化し,内需拡大へ向かってゆるやかでは あるが上向き始めた。さらに61年12月から始ま った大型景気は,神武景気(31力月),岩戸景気 (42力月),いざなぎ景気(57カ月)にならび現 在に至っている。
62年6月24日,松尾英男が全長に,副社長大木 俊一が社長に就任,社長横田二郎が東京急行電 鉄副社長就任を機に取締役となった。
就任に当たって松尾会長は,「鉄道は安全が第 一というカヾ,鉄道にとって安全とは当たり前の こと,これからの鉄道には”楽しさとロマン” が求められる。伊豆急を中心に伊豆を日本の伊 豆に,世界の伊豆に発展させたい」と述べた。
また,大木社長は,「何の商売でも自分の主義 主張があっていいはずだ。私は生来の旺盛な好 奇心を生かして,リゾート21やロイヤルボック スをつくってみた。鉄道には行政指導など難し い制約がいろいろある力”お客に喜んでもらう ことを念頭に構想を重ねてゆけば,解決の糸口 が見つかるだろう。その衝に当たる者は,時の 流れに絶えず注目しつつ,新しい時代感覚を養
わねばならない」(社内報『はまゆう』昭和62年 8月号)と所信を披歴した。
待望の復配と初の公募増資
当社は平成元年(1989) 3月期,待望の復配(年 8%, 40円/株)を実施した。その背景の一つに, わが国経済の内需拡大策の進展と,旺盛な民間 設備投資および個人消費を中心とする国内需要 の好調があった。しかし,復配を可能にした最 大の要因は,株主各位の絶大な信頼のもと,難 局に取り組んだ全社員の忍耐と努力によるもの であった。
大木社長は,常々「地震と水害で無配に転落 したが、,12年ぶりに復配することができた。絶 えず株主に対する配当を念頭において,経営努 力を重ねていかなければならない。株主配当と 社員賃金は,いわば車の両輪である。一輪車で は株式会社は成立しない。「この意識をもって今 後とも事に当たってほしい」と社員の自覚を求 めていた(『はまゆう』平成2年1月号)。
当社は,平成2年2月21日開催の取締役会にお いて,新株式発行を決議し,同年3月26日の払い 込みで30万株(発行価格1万2,545円/株)の公募 増資を行った。
これまでに当社は,昭和36年に10億円から2() 億円へ,38年に20億円から30億円へと2度にわた り増資を行ったが,これはいずれも株i:•割り”i て(発行価格500円/株,券面額)によるもので あった。なお,公募増資の実施に伴い,株王へ
第6章施hととレに歩む伊’エ急行
53
——-
の利益還元策として,平成2年3月31日現在の株 主に対し5月15日付をもって,1株につき0.05株 の割合で無償新株式を発行した。
新株式発行の概要は,①発行価格1万2,545 円/株,②発行価額の総額37億6,350万円,③資 本組み入れ額の総額18億8,190万円,④新資本金 48億8,190万円,⑤発行済み株式の総数630万株 (3月27日),661万5,000株(5月15日)であった。
ワラント債の発行と記念配当
当社は平成3年5月27日開催の取締役会の決議 により,設備資金等に充当するため6月13日,ス イスフラン建て新株引受権付き社債(ワラント 債,1995年満期,利率2.5%,発行価格1億スイス フラン,行使価額6,776円)をスイス連邦におい て発行,約92億円の資金調達を行った。
6月4日には大木社長が出席して,チューリッ ヒ市において発行会社である当社と保証銀行で ある日本興業銀行,買取引受人であるヤマイチ バンクスイスをはじめ金融24社との間で契約書 の調印式が行われた。
また,平•成2年度は業績が順調に伸長したカマ, 平成3年が当社鉄道開通30周年を迎えることも あって,6月24rlの定時株し•総会の決議により, 株主配当金を従来の8%配当に2%の記念配当を
加えて年10%, 50円/株の配当を行うことがで きた。
当社育ての親五島昇会長の逝去
東京急行電鉄会長,日本商工会議所名誉会頭, 当社取締役五島昇が,平成元年3月20日午前2時, 呼吸不全のため東京都港区の東京慈恵会医科大 学付属病院で逝去した。享年72歳であった。本 葬•告別式は4月26日午後0時30分から,日本商 工会議所,東京商工会議所,東急グループの合 同葬として,港区芝の増上寺大殿で執り行われ た。
同会長は,昭和34年4月,当社の前身である伊 東下田電気鉄道㈱の初代社長に就任,43年11月 までの激動の9年余を勤められ,当社の礎を築か れた。その後も折にふれて数多くの指導を得た。
昭和61年11月,永年に及ぶ業界への功績によ り勲一等瑞宝章を受章した。
父五島慶太翁の遺志を継ぎ,鉄道建設構想の 実現へ向けてのあくなき挑戦は,伊豆住民50年 余の悲願を背に負っての「敷設請願」に,また 「公聴会」での手に汗握る熱弁となった。さら に,建設現場最前線での陣頭指揮と作業員への 鼓舞,隧道事故による他界した方々への哀惜の 厚情など忘れがたいものがある。愛染明王への
ワラント債調印式(スイス•チューリッヒ市)
五島昇会長葬儀(港区芝•増上寺)
54
——-
篤信とともに,今あらためて故人を思い,謹ん で哀悼の意をささげるものである。
昭和62年12月12日,石毛公済元会長が,翌63 年10月31日には白石安之元社長が不帰の客とな った。
⑵ 夢を運ぶ新型列車の開発
ブルーリボン賞の受賞
昭和61年,会社の命運をかけ英知を結集し, 伊豆観光のシンボルとして登場させた“リゾー ト21”は,「1986年ブルーリボン賞」を中小私鉄 としては初めて受賞した。
この賞は,わが国で製造され,営業運転に入 づた車両のなかから,鉄道友の会(八十島義之 助会長,会員2,600人余)が趣味的見地と利用者 側立場との両面から選考するもので’,その受賞
ブルーリボン賞受賞式と記念盾
は車両製作者にとって最高の名誉とされている。
受賞式は61年7月13B,伊豆急下田駅で開かれ た。駅構内には鉄道ファン,市民多数がつめか け,大賞に輝いた新型電車“リゾート21”を祝 福した。八十島会長の挨拶後,大木副社長に表 彰状,花房専務に記念盾が贈られた。
“リゾート21”は地域性を重視し,卓越したア イディアと斬新なスタイルによって,輸送人員 の大幅増を招来しただけでなく,以後製造され た各社の鉄道車両に大きな影響を与えた。
“リゾート21″の増備
“リゾート21”の成功により当社は,熱海駅乗り 入れを果たした。昭和61年7月,2次車を増備した。 次いで63年5月には,伊豆急下田駅一東京駅間を 走る3次車を増備した。この列車は東海道本線に おいて当社初の時速110kmを記録した。
この3次車は,2次車の機能に加え,車内には 各車両の車端上部に電光掲示板を設置し,4号車 (サハ)のイベントコーナーは海•山両側ともは ね上げ式横並びシートとし,これまでのワンド アからツードア化することで乗降時間の短縮を 図った。
続いて平成2年2月には,“リゾート21EX”と 命名した4次車力”ロイヤルボックス」を連結し, “特急リゾート踊り子号”としてデビューした。
この列車の主な特徴は,①最高速度は
第6章地成とともに歩む伊レ急行
55
——-
一方,西は大阪府から東は福島県までの貸切 団体観光バスの乗客に伊豆急下田駅で下車願 い,“リゾート2ドに乗り換え,電車の景色を約 40分楽しみ,回送したバスで伊豆高原駅から再 びバスの旅,こんなユニークな「リゾート21体験 乗車」の行程を組み入れたバスツアーの利用客 が平成3年春,約5年で10万人を突破した。これは リゾート21がもたらした予想外の成果であった。
自動券売機と印刷発行機の導入
当社は,平成2年11月20日から伊豆急下田駅に 自動券売機3台,印刷発行機2台,いずれも㈱高 見沢サイバネテックスで開発されたものを導入 した。
この自動券売機は自由席特急券付き乗車券を 発売,踊り子号では伊東駅以遠の特急停車駅, 新幹線では東京一名古屋間の各駅などの乗車券 を迅速に購入することができるようになった。
リゾート21EX
印刷発行機はJ Rとの連絡運輸の範囲,全駅 を登録したタッチパネルを操作し発売するもの で,30年近く使用してきたチケットボックスが 同機の導入により姿を消した。このことによっ て乗車券類の在庫管理が軽減され,ボタン操作 一つで券類の集計作業が可能となった。従来集 計作業のみに使用してきたパソコンとの連動で 業務処理能力が向上し,よりよい接客サービス ができるようになった。
「ロイヤルボックス」の新造
昭和62年3月,当社は「グリーン車」に代わる 「特別車両」づくりに着手し,従来の常識を超 えて誕生させたのが豪華さを盛り込んだ「ロイ ヤルボックス」(1800形)であった。この車両 は旧サロを改造し,定員43人(グリーン車は当 時60人),ゆったりとした座席と大理石を使用 した内装で、,サロン風にまとめ好評を得た。
その後,本格的に「ロイヤルボックス」を登 場させたのが平成2年2月の4次車編成の“リゾー ト21EX”に組み込まれた「ロイヤルボックス 2180形」である。一新「ロイヤルボックス2180形」…
ファンタジーをイメージしたロイヤルポックス2180形
56
——-
は,天井に光ファイバーを装備し,トンネル内 では星空を映し出す装置を取り付け,より豪華 で夢を盛り込んだものとなった。
さらに,3年7月には「ロイヤルボックス2180 形」3両を増備し,星空の演出イメージをロマン チックー星空と港町夜景,ファンタジ——星空 と月と地球,アドベンチャーー星空と空想宇宙 といったコンセプトで構成したこの車両は,従 来の電車のイメージを根底から変えた独創的な 作品となった。
制服の一新
昭和36年12月の開業時から着用したチャコー ルグレーの鉄道掛員の制服は, 当時としては画 期的なデザインであったが,現在の「リゾート 21」が走る時代にあっては,いささか古くささ を感じさせるものとなっていた。
そこでまず接客サービスの最前線で働く男性 乗務員•駅務員の制服を一新し,斬新なデザイ ンのものとすることとした。
デザインの特徴は,全体としてシンプルで, 格調高い雰囲気をもち,職員の職務遂行意識を 高め,機能性を考慮した。また,配色は上着が「ロ ーズグレイ」の自然志向と”リゾート2rにマ ッチし,ズボンの「インテ’イゴブルー」との伝統
的なユニホームカラーで好感度が高く,誠実さ や親しみやすさを感じさせるものとして採用 し,平成2年2月,“リゾート21EX”のデビュー と同時に着用した。
一方,現在23人いる女性乗客掛の制服は,男 子制服と同色で、,ゆとりあるリゾート空間にさ わやかな明るいイメージをコンセプトに,女性 らしいシルエットに流行と機能性を採り入れた もので、,平成3年6月から新ユニフォームとして 採用した。いずれも乗客から好評を得ている。
JRとの協調
昭和62年4月1日,国鉄が分割民営化されたこ とにより当社は,新たに発足した東日本旅客鉄 道㈱と従来にも増して密接に連携を保ち,列車 相互乗り入れによる旅客の利便と増収対策を図 ることとなった。
同社の当線への乗り入れは,これまでの踊り 子号に加えて,平成2年4月から新型特急“スー パー ビュー踊り子号” (全座席指定) を東京,新 宿,池袋の各駅から運転した。
“ログハウス”城ケ崎海岸駅舎の建設
昭和47年3月に開設された城ケ崎海岸駅は,利 用者の増加で手狭になってきたことから,新構…
ニューデザインの制服
□グハウスの城ヶ崎海岸駅舎
第6章 地域とともに歩む伊豆急行
57
——-
想により改築することとなった。
新駅舎は,総工事費1億2,000万円をかけ,建築 面積約314m2,駅務室,待合室,売店,トイレ等 のほかに「ロフト」と呼ばれる屋根裏部分に喫 茶室が設けられている。
構造は,カナダ杉の直径約70cmの丸太を採用, 建設指導をカナダ人ログビルダー,アラン•マ ッキーに委嘱した。
平成3年9月4日の竣工式は,当社関係者をは じめスワンソン•カナダ公使を迎え盛大に挙行 された。
⑶不動産業の多面的展開
建売とリゾートマンションの販売推進
当社不動産事業は景気停滞が続き,別荘需要 の冷え込みも厳しいなかで,好評の伊豆高原分 譲地,一碧湖畔分譲地,一碧台分譲地などを主 力商品として販売に努めてきたが,昭和58年ご ろから従来の更地売りから付加価値を付けた建 物付き別荘販売に転換を図るとともに,その建 築工事は,企業規模拡大のため伊u急ハウジング に請け負わせた。
景気が好況に転じた61年・以降は,建売•注文 建築を充実させる一方,「リゾート129城ヶ崎」 に続くリゾートマンションの名称を「リゾート
城ケ崎海岸駅舎竣工式
129j (129=いずきゅう)シリーズとして展開, 61年7月には「リゾート129伊豆高原I j (2棟, 20戸),62年10月「伊豆高原U」(2棟,24戸), 63年12月「伊豆高原III」(2棟,24戸,土地転借 権付き),また下田市碁石が浜分譲地においても 62年10月「リゾート129碁石が浜I」(4棟,18戸), 63年1月「碁石が浜H」(2棟,20戸),63年7月「碁 石が浜HI」(4棟,20戸),「伊豆高原V」(5棟, 52戸,土地転借権付き,平成4年3月竣工予定),
「碁石が浜V」(1棟,36戸,平成4年H月竣工予 定)の建設を進めている。
大ロ法人保養所の誘致と仲介業への進出
法人の注文建売として,完成後に一括引き渡 す方式とした新しい販売方法も好評であった。
一方,61年4月には不動産流通課を新設し,従 来の自社物件の仲介から脱皮し,さらに充実し たものにするため,伊豆高原,伊東,下田に営…
碁石が浜の建売別荘
58
——-
59?
——-
行して,山側ホームへの踏切を地下道とし,安 全性の確保を図った。
伊豆高原地区へのスーパーマーケットの進出 は数年来の懸案事業であったが,土地所有者が 建物および駐車場を建設し,当社に賃貸するか たちで対島中学校に隣接する場所に平成3年7月 140,伊豆高原店が開業した。
伊豆急ケーブルネットワークの設立
当社は,情報化社会にあって地域に密着した 自主報道,防災情報,自治体公報,観光情報等 の提供を目的に昭和60年5月10日,㈱伊豆急ケー ブルネットワーク(略称IKC)を設立した。設立 時は資本金1,000万円で,伊豆急行,東京急行, 東急エージェンシー,伊東ケーブルビジョンほ か13社が出資し,その後2度の増資により静岡 県,沿線市町,伊豆新聞などの出資も得て現在 は資本金1億円となっている。同社は昭和63年4 月1日から営業放送を開始した。
鉄道用地を活用して約62kmに及ぶ光ファイバ ーケーブルを敷設,CATV各社と提携してニュ ースや番組を提供するとともに,各社からも番 組の供給を受けている。门1番組づくりに努力 し,内容の充実に努め.また広3業への進出を 図るなど地域の情報産業としての基盤を強固に
すべく努力を重ねている。
伊豆高原ブライダルサービスの設立
“高原のチャペル”神聖で夢を描かせるのにふ さわしい響きである。これを現実のものとした のが伊豆高原教会である。
昭和60年5月10日に㈱伊豆高原ブライダルサ ービスが伊豆急行㈱,㈱つるやホテルの共同出 資で設立され,社長には畠山昭一郎が就任した。 教会建物(木造)100m2,椅子席40席で、,結婚 のカップルにはロールスロイスで送迎するなど 好評で,平成2年度には結婚挙式数約400組を誕 生させた。
アメリカ•カリフォルニア州に本部をもつ1’ACC キリスト教団」に加盟している日本支部の牧師を 迎え,教会での結婚式,日曜日の朝の礼拝,聖 書研究会など宣教活動を行っている。
伊豆急リゾートの設立
当社は従来より営業していた貸別荘を「ルネ ッサ」と命名すると同時に,伊豆高原,城ケ崎, 稲取高原,赤沢の4ルネッサの管理運営を目的と して,資本金1,000万円で昭和61年1月,㈱伊豆急 リゾートを設立した。社長には沖野央二郎が就 任した。
IKCのスタジオ
伊豆高原教会
60
——-
事業所の概要は次のとおりである。
①ルネッサ伊豆高原 客室29室,収容人員154 人,レストラン,テニスコート6面,プール
②ルネッサ城ケ崎 客室59室,収容人員344
人,レストラン,テニスコート2面,プール
③ルネッサ稲取高原 客室34室,収容人員164 人,レストラン,テニスコート22面,セン ター棟
④ルネッサ赤沢 客室81室,収容人員439
人,レストラン,テニスコート2面,センタ 一棟,研修棟
平成2年度には宿泊客数が15万5,000人にも上 り,リゾート地での余暇を満喫できる宿泊施設 として好評を得ている。
北川漁業,傘下となる
昭和43年以来,東伊豆町奈良本北川港沖で定
ルネッサ稲取高原
置網漁業を行ってきた北川漁業㈱は,近年漁獲 量の漸減,人件費の増加等で経営が悪化し,維 持することが困難となったため,当社へこの実 情を打ち明け協力を要請してきた。当社として は一次産業への進出は初めてであるが,地域と の相互扶助を考慮して全面的に資本参加するこ ととなり,昭和61年4月1日,当社グループに仲 間入りした。その後業績は回復したが,63年9月 15日の台風18号により持ち船2隻大破,同18日に は潮流の急変による定置網流失の被害を受け た。しかし,従業員の懸命の網修復作業等を行 った結果,11月15日には操業を再開し,台風被 害で赤字を計上していた経営も順調に回復し, 平成3年n月期には累積損一掃の見込みである。
農業法人南の里の設立
当社は,” 21世紀へ向けてのリゾートのありか たを検証する基地”として昭和63年2月,リゾー ト計画部内に伊豆南プロジェクトチームを結成 するとともに同年11月1日,計画の実現とその後 の事業展開を目的とする,農業法人「有限会社 南の里」を設立した。社長には相馬久雄が就任 した。南の里の事業地は南伊豆町加納字南の山 にあり,総面積59haである。
温暖で恵まれた立地と環境のなかでキウイフ…
ルネッサ赤沢
定置網による水揚げ風景(北川港)
第6章 地域とともに歩む伊.”:急、行
61
——-
ルーツl.Ohaと甘夏みかん1.5haを栽培し,また, 鶏をキウイフルーツ畑に放し飼いして,自然有 精卵を生産するための試験飼育を行っているほ か,果樹をポットによる25品種を,200鉢の試験栽 培を行い,将来はリゾート開発と有機的に連動 して,南伊豆を訪れる人たちに四季を通じて果 樹,花き,ハーブ等の栽培や収穫の喜びを体験で きるリゾート農園づくりの計画を推進している。
“サスケハナ”就航
黒船(第2天城丸),千石船(第3天城丸,51.55 トン,定員155人),マリンバード(おしどり, 14.00トン,定員85人),五百石船(豆州丸,17.00 トン,定員90人)など,次々とアイデアを盛り 込んだ遊覧船を投入,下田一弓ヶ浜航路を開設 し,下田に,石廊崎に,そして弓ケ浜にと,事 業展開に意欲的な伊豆急マリンが,下田港遊覧 船「黒船」の代替船を63年8月13日に発注し,新
南の里(南伊豆町)
キウイフルーツ畑
船は平成元年3月下旬からの営業を目途に建造 を進めた。
黒船PART11の船名“サスケハナ” (SUSQUEHANNA )はペリー艦隊の旗艦名 で,この艦船にちなんで命名された。
新船の建造は,広島県因島市の石田造船工業 が担当した。用途が下田港めぐりに限定される ことから高速は必要とせず,蒸気船特有の重量 感を出すため鋼鉄船とした。全長35m,125トン, 船室は1,2階に分かれ,フラットなワンフロアー タイプで,遊覧船としての使用のほか,昼夜を 問わずパーティーもできるハイグレードな内 装,音響設備など下田の風光を堪能できる自慢 の趣向をこらしている。
平成元年2月21日,進水式を迎え,関係者の見 守るなか,あでやかな船姿を海に浮かべた。 …
下田港内を航行する“サスケハナ”
62
——-
仕上げ作業も順調に進み,3月20日の引渡し式 の当日,五島昇会長の計報に接した。”サスケハ ナ”の誕生は実に感慨深いものがある。
伊東いでゆ自動車,傘下となる
伊東市に本拠をおく伊東いでゆ自動車㈱(設 立昭和37年,社長篠原与作,資本金960万円,保 有タクシー18両)が経営者の高齢化のため,当 社に対し経営の肩代わりの要請があり,これに こたえ平成元年7月31日,当社グループの仲間入 りをすることとなり,車体も伊豆急タクシーと 同じブルーのツートンカラーとし業務面での提 携も強めることとなった。
稲取ゴルフ場36ホールグランドオープン
昭和48年10月に9ホールを増設し,従来のアウ ト•インから山,海,森コースの27ホール,パ -108となった。
その後,増設計画を進めたが,県東部ゴルフ 場開発凍結のなかで保留を余儀なくされた。62 年9月に開発凍結解除の第1号として認可が下 り,9ホール増設36ホール,パー144への一歩を 踏み出した。今回増設された9ホールは既存の海 コース9ホールと増設計画9コースを•一括し,プ レーヤーのプレーしやすいように海コースと島 コースに組み替えられた。新コース(海コース)
は,当ゴルフ場生みの親,故五島昇会長の顕彰 碑が望めるティーグランド,名物ホールとして 伊豆半島が浮かんでいるように見える池,自然 なままの岩石を配したホール等,稲取ゴルフ場 ならではのレイアウトであり,プレーヤーが楽 しめるコースとして設計してある。また,.各コ ースの中心に新築されたクラブハウスは,鉄骨 造2階建て,延べ面積4,12Oirfで、,山小屋風の落ち 着いた雰囲気を醸し出している。
豪華なVIPルームと「浅間」「三筋」「天城」の …
伊豆半島をかたどった名物ホール(稲取ゴルフ場)
五島昇会長顕彰碑
天窓つきタクシー(伊東いでゆ自動車)
新装なったクラブハウス
第6章 地域とともに歩む伊豆急行
63
——-
コンペルーム,レストランや浴室などすべての 部屋から太平洋が一望でき,本物志向を追求し た諸設備や調度品とマッチしてゴルファーの豊 かなクラブライフが味わえるよう配慮してあ る。
⑸ 局地豪雨,伊豆南部を直撃
平成3年は世界的に異常気象が激増し,日本に おいては台風による被害が続発した。
同年9月10日から11日にかけて,下田市や河津 町を中心とする伊豆南部地方は局地的な豪雨に 襲われ,犠牲者を出すとともに,家屋や橋の損 壊•流失,土砂崩れや冠水により国道•県道が 各所で通行止めになるなどの災害に見舞われ た。
この豪雨により当社線は,谷津トンネル上部
災害発生翌日の状況(谷津トンネル下田方ロ)
拍手で迎えられる復旧第1号電車
山間の土砂崩壊とこれに伴う落合川の氾濫によ り,隧道内に下田方口より大量の土石や倒木が 流れ込むと同時に,隧道下田方口から稲梓駅間 の橋梁ならびに道床の流出,架線電柱の倒壊お よび軌道埋没のため伊豆急下田駅一河津駅間が 不通となった。これにより不通期間,電車は河 津駅から伊東方面は折り返し運転を行うととも に,河津駅一伊豆急下田駅間はバスによる代行 輸送が行われた。
谷津トンネル付近の被害は予想以上で,当初 は年内復旧も危ぶまれた。復旧工事は被災後た だちに着手したが,重機導入が不可能なことか ら人海戦術での突貫作業となった。
同年11月23日,復旧予定を大幅に短縮して, 始発電車から上下線とも通常運転を再開した が,その前日行われた竣工式において大木社長 は「2力月半にわたり,市民生活や観光をはじめ とする経済活動が大きな打撃を受けただけに, 地元住民の期待にこたえることができ,これも ひとえに工事関係者の昼夜をわかたぬ努力によ るものと心から感謝申し上げます。リゾート地 伊豆を,これまで以上に素晴らしくするため, 地元と一緒になって災害を克服していこう」と あいさつした。
(6)鉄道開通30周年を迎えて
当社は,平成3年12月10日,鉄道開通30周年を 迎えた。同年1月7日に開かれた恒例の新年会に おいて,大木社長は「鉄道開通30年という節目 を迎え,21世紀に向かって何を残し何を切るか, 体を軽くしながらも飛躍を図る,という重要な 位置付けの年である。事業を進めるに当たって は進取の気性をもつことが不可欠である。その
64
——-
進むべき道にはお手本もなければ先生もいな い。日ごろの勉強と実体験を通じて,オリジナ リティーを発揮した知恵とセオリーを組み立 て,そのうえにリゾートの花を咲かせることが われわれの責務である」旨の決意を開陳した。
鉄道開通30周年記念事業の一環として,伊豆 急下田駅など駅舎の改修,さらには積年の懸案 である伊豆高原駅前13万m2の総合開発に着手す ることとなった。リゾート•ファーム「南の里」の 推進とともに,いずれも長期事業となることが 予想され,資金需要の点からも財務体質の強化 に積極的に取り組む必要がある。
いずれにせよ,これらのプロジェクトは,将 来,改めて社史が編まれるとき,必ずや輝かし い記念すべき出発点となるよう,その実り多き 成果を祈念するものである。
第6章 地域とともに歩む伊M急行
65